聖書:創世記45章3~8節   指方周平牧師(2018年8月)

説教:「備えていてくださる神さま~ヨセフ物語~」

 

蒟醬(きんま・香川県の伝統工芸漆器)の職人は、手を滑らせた意図せぬ彫刻刀の線をも模様の中に巧みに組み込んでいくという話を聞いたことがあります。放り出せばそれまでですが、諦めなければ、そこから紡ぎ出されていく新たな展開があることを示唆するこの逸話は、失敗が少なくなかった人生の途上においては何度も思い出されたものでした。聖書に登場するヨセフは兄たちの嫉妬と悪意によって罠にはめられ、故郷から遠く離れたエジプトに奴隷として売られてしまった人物です。これは17歳だったヨセフにとって想定外の挫折でした。

 

先行き見えない状況に翻弄され、不安と寂しさに飲み込まれていく中で、あの時ああしていれば良かったのだろうか、あんなことを言わなければ良かったのだろうかと、ヨセフ自身が数えきれない後悔を重ねたであろう様子を想います。しかし聖書はヨセフがエジプトで不本意な人生を失意のうちに終えたとは記していないのです。冤罪や監禁で13年の辛酸を味わったものの、ヨセフは30歳の時にファラオが見た夢の意味を解き明かした功績により、遂にはファラオに次ぐ地位にまで立身出世します。ただ、これはヨセフが困難に負けず、少ないチャンスを見逃さず、自分の能力をいかんなく発揮して名誉と地位を獲得したという個人的な成功物語ではありません。

 

愛息から奴隷へ、奴隷から管理人に、管理人から囚人へ、囚人から支配者にと言う具合に、境遇の変化が目まぐるしいヨセフの人生を辿る中で、私は「主がヨセフと共におられ」という言葉が聖書に3度(創世記39:2、39:21、39:23)繰り返されていることに気付きました。そして主なる神さまのお名前が、私たちと共におられる事実を連想させる「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)であったこと、天使に告げられた主イエスの名も「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイによる福音書1:23)であったことを思い起こしました。父の溺愛に包まれていた時だけでなく兄たちの敵意に飲み込まれた時も、王宮の中だけでなく牢獄の中でも「主がヨセフと共におられ」た事実。これも聖書全体を初め(Α)から終わり(Ω)まで貫いている「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28:20)という大いなる福音の一角であると思い巡らせるのです。

 

環境や感情に左右されない強固な意志や芯のある誠実さがヨセフに報い、ついには兄弟たちとの和解や父との再会をもたらしたのではなく「主がヨセフとともにおられ」た事実こそがヨセフを励まし、支え、波乱に満ちたそれまでの紆余曲折に意味を与えていったのではなかったか。「主がヨセフと共におられ」たからこそ、悪意や誤解で途切れてしまった線、恨みや怒りで曲がりくねってしまった線が主なる神さまの御手によって豊かに展開されて、遂にはヨセフを陥れた兄たちさえも主なる神さまの栄光を証する偉大な器の模様に組み込まれていったのではなかったか。無から有を創造される主なる神さまは裏切りや誤解、策略と敵意に満ちた主イエスの十字架の絶望の死からも復活の命を紡ぎ出されたお方です。私は主なる神さまがヨセフだけでなく、わたしたち1人1人とも共におられて、どんな時も、どんな場でも御旨にかなう道を一歩一歩定め(詩編37:23)備え、導いていてくださる見えない事実を確認(ヘブライ人への手紙11:1)しています。

 

(2018年8月15日 埼玉地区 中学生KKS青年キャンプ閉会礼拝)

蒟醬(きんま)の器

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