招  詞 ヨハネの手紙Ⅰ 4:20~21

旧約聖書 レビ記19:9~18

新約聖書 ヨハネによる福音書13:31~35

讃  美 歌 Ⅰ-461、Ⅰ-321、21-542 

交読詩編 34:2~8

説  教「完結明瞭にして最高の掟」指方周平牧師

 

 大学2回生の4月、高校時代の後輩が進学のため京都にやって来きました。

大学は違いましたが、高校時代に仲が良かった後輩が、同じ町に住むようになったことがうれしく、よく彼のアパートに遊びに行きました。毎月の奨学金やアルバイトなどでお金が入ると、銭湯に連れて行き湯船に浸かって思い出話に花を咲かせ、帰りにはラーメンやお好み焼きを食べに行ったりして、最初こそ先輩風を吹かしていたのですが、大変聞き上手なこの後輩が一緒にいると心の内をこぼしやすく、いろんな話を聞いてもらいました。

彼なら聞いてくれるという安心感から、いろんな愚痴も聞いてもらいました。この頃、いろんな行きづまりを抱えていた自分は「自分はダメな奴だ」「自分に腹が立って仕方ない」などと自分を裁いて止まない自己嫌悪をとめどもないまま吐き出していたのでした。

しかし、しょっちゅう同じ話が繰り返される中、さすがの彼も「またか」と、うんざりしたのでしょう、夏が終わる頃、彼にこう言われました。「指方君は、牧師になるんだろ。自分を愛せないのに、他人を愛するなんてできませんよ。」ガーンとしました。彼は後輩なのに先輩みたいでした。そして「自分を愛せない者に、他人を愛せない」という言葉は、この時の状況と合わせて、忘れられない言葉として、私の心に突き刺さったのでした。

 

過大評価して舞い上がることも、過小評価してさげずむこともなく、等身大の自分をありのまま受け入れる。「自分自身を愛する」誰から教えられなくても、人間は自分を第一とすることを生まれながらに知っていますが、自分自身を無批判に、ありのままうけいれることは決して簡単なことではありません。ある意味、自分の中で、いつも自分を客観的に見つめている内面の良心があるからこそ、自分の目指す状態とは程遠い自分自身を受け入れられないのです。「自分自身を愛せない」これが人生の基礎工事の時期に抱えていた深刻な問題でした。

旧約聖書に啓示された神の掟を完成させるために、神ご自身でありながら、この世に来てくださった主イエスは、当時の聖書の専門家から「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問された時「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:34~40)と長大な旧約聖書を要約して簡潔明瞭に答えられました。しかし、これは、主イエスが紡ぎ出された新しい御言葉ではなく、旧約聖書のレビ記に納められていた言葉であり、モーセの時代にこの掟が与えられてから既に1200年以上もの時間が経っていました。

理解できる言葉として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」と教えられ、言葉としては知っていても、自分の力では、自分自身さえ受け入れられなかった人間の歴史、自分を造った神さまよりも、自分自身を第一としてしまう的外れた状態のゆえに、神さまの造られた本来の命を喜んで生きることのできなかった人間の罪の事実を思い起こします。

しかし、そんな人間を的外れに放置するのではなく、神さまの似姿として愛に満たされた本来の命の状態を人間に回復させるために、主イエスが世に来られたのでした。

 

私は、母親のお腹にいる時から教会に住み、教会学校に行き、聖書や讃美歌によって言葉や文字を覚えましたから、小学生の頃には、聖書のことやキリスト教に関しては、そんじょそこらの大人よりは知っているという妙なプライドがありました。

しかし、そんな自分が、物心ついた頃から勘違いしていたのは主イエスをお手本にして立派に生きていくということでした。主イエスは努力して大成した伝記物語の、数多いる偉人の1人ではなく、主イエスの教えも、人間の処世訓や道徳ではありません。しかし、主イエスをお手本にして自分で立派に生きるという信仰の勘違いは、イエスを主と告白し、名実ともにクリスチャンとなり、主イエスを宣べ伝える牧師となってからも長く続きました。そして、そんな自分に気付きが与えられたのは、自分の力で、主イエスをお手本に立派に生きることができなくなった挫折の時でした。

先週たどった聖書の箇所で、御自身こそ良い羊飼いであると宣言された主イエスは、当時の宗教指導者たちを厳しく戒めて「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」とおっしゃられました。

わたしが初めて教会の転任を経験したのは33歳の時でした。大きな教会に招聘されて、自分の能力やそれまでの働きが認められたかのような舞い上がった気持ちがありました。しかし転任まもなく、大好きだった京都の教会を離任し、大好きだった方々や環境と別れた喪失感や、環境変化の疲れが積み重なって、一気に心身の調子を崩し、赴任間もなく7か月の療養に入ったのでした。起き上がれない、立ちあがっても歩けない、話が頭に入って来ない、これは自分にとって初めての体験でしたが、赴任間もなく療養するなど聞いたことがありませんでしたから、私自身、もう自分は駄目だと思いました。そして、なかなか回復しない牧師が教会に居座っては教会が停滞どころか混乱するし、自分も焦ったままでは回復しないと思い、前任地を2年で辞任したのでした。自分にはこの教会の牧師の資格がないと思っての決断でしたが、牧師としては何もできなかった自分が辞める時、教会の人たちは泣いてくれました。そして、自分が立派に働いているから牧師として認められたり認められなかったりするのではなく、自分たちの牧師として遣わされた存在のゆえに教会の方々が自分を大切にしてくださっていること、愛するに先んじて愛されていたことを思い知ったのでした。この時は塞がる気持ちの中で見えていませんでしたが、いま見つめ直すと、この事実への気付きは信仰生活における一大事でした。

 

今朝の新約聖書舞台において主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と宣言されました。この御言葉の35節は私たちの教会における昨年度の年間聖句であり、34節が今年度の年間聖句です。

これは、十字架の前夜、最後の晩餐の席で、残り少なくなった時間の中で、ユダが裏切るために出て行き、主イエスが御許に残った弟子たちに語られた御言葉です。そして、この席において主イエスは、ひとつのたとえ話をされます。ヨハネによる福音書において「わたしは~である」という言い回しで、御自身を証してこられた主イエスは、この最後の晩餐の席において「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」とおっしゃられました。

私たちは自力では、他人を愛するどころか、自分を愛することさえできません。そんな私たちが、互いに愛し合うためには、主イエスにつながっていなかればならない事実を見逃してはなりません。私たちは、自分の誠実さや頑張りによって、憎い相手を受け入れたり、定まらない自分自身を肯定したりするのではありません。自分を根拠にするならば、自分ひとりも愛せない私たちは、身代りに死んだところで信じないかもしれない、変わらないかもしれない不確かな私たちのために、無駄を惜しまず、先んじて十字架に架かってくださった主イエスの真実に結ばれているからこそ、主イエスの愛によって、目に見えない神さまも、目に見える隣人をも、主イエスに無条件で愛されたように、愛することができるのです。私たちに先んじて主イエスが私たちを愛してくださっているからこそ、私たちが主イエスにしがみついているのではなく、主イエスにつかまえられているからこそ、主イエスに注がれる神の愛によって、ぶどうの木の枝である私たちは初めて満たされ、初めて互いに愛し合うことができるのです。

そんな私たちが、互いに赦し合い、受け容れあい、祈り合い、愛し合う事実によって、私たちの間に宿り、満ち満ちておられる主イエスを証するために、私たちはキリストの体である教会に結び直されております。

「互いに愛し合いなさい」とは簡潔明瞭にして最高の掟ですが、これは人間の目標や理想のスローガンではありません。的外れた人間の自力によれば到底不可能なこの命令は、愛の源である主イエスに愛されている事実に打ち砕かれてこそ、主イエスに結び直されていてこそ実現可能な御言葉なのです。

まだキリスト教が誕生間もなく、ユダヤ教の一分派や異端程度にしか評価されていなかった紀元1世紀、初代教会には無いものだらけでしたが、それでも初代教会の交わりを周囲から見ていた人々は、教会の人々が支え合い、分け合い、一緒に生きている真実の中に、どんな説教よりも雄弁に、神さまの臨在を感じ取り、仲間に加わって行きました。今年度の主題讃美歌に「主が受け入れてくださるから、われら互いに受け入れあおう。共におられる主を信じよう。主に愛されたひとりとして」とあるように、わたしたちも、キリストの体からさまよい出ていくことなく、主イエスの御声が聞こえてくる囲いの中に留まり、主イエスが共におられる事実、主イエスに愛されている事実を共に喜び、主イエスを根拠とする愛によって互いに愛し合う事実によって、キリストの香りを証ししながら、神の国の裾野、ぶどうの木の枝を広げていく御用に用いられてまいりたいのです。

 

説教後の祈祷

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。

天において、あなたの愛と真実が満ち充ちておりますように、この地上の私たちの間にも、あなたの御心が行われる御国が来ますように。

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。

わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。

キリストは御自身を否むことができないからである。」

今日も、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合、熱くも冷たくもない信仰の状態に関係なく、私たちをキリストの体である教会に結び直してくださったあなたの愛と真実は、私たちのただ中に、私たちの間に満ち充ちております。

主イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃられました。

主イエスの弟子である私たちが、私たちが主イエスを愛するに先んじて、主イエスに愛されている真実によって、互いに愛し合う事実によって、私たちの間に満ち充ちておられる主イエスを証すること、神の国を実現していくことができますように。

永遠の命であられる主イエスに結び直されている事実、主イエスが共におられる事実を喜ぶ私たちの周囲に、キリストの香りが静かに豊かに広がって参りますように。今週も、あなたの御国の御用のために、わたしたちをお用いください。

主イエスの御名によって祈ります。アーメン

植えられた線路脇で、しっかり枝を伸ばしていたぶどうの木

ご覧になって頂き

有難うございました

 

 

   日本キリスト教団

  東 所 沢 教 会