説 教

説 教 主の招く声 指方周平牧師    (2014・1)

招 詞 使徒言行録915

旧約聖書 エレミヤ書1410

新約聖書 マルコによる福音書11420

 

今朝の聖書舞台において、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた主イエスは、湖で魚を獲るために網を打っていたシモンとアンデレという兄弟の漁師を見かけられました。主イエスは彼らに「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられました。すると2人は網をすぐに捨てて従ったといいます。それから少し進んでいかれると、今度はヤコブとヨハネという別の兄弟の漁師が舟の中で網の手入れをしているのをご覧になられ、先程と同様に彼らをお呼びになられました。この2人もまた、主イエスの後について行ったといいます。

 

今朝の新約聖書箇所には、4人の漁師が主イエスに呼ばれて「従った」「ついて行った」という結果が淡々と記されているだけですが、思い巡らせても見れば、彼らは、ガリラヤ湖のほとりで何十年と積み重ねてきた漁師としての仕事や生活のリズム、生業のためになくてはならない網や舟といった財産、家族を扶養する義務もバッサリ捨てて、初対面の主イエスについて行ったのです。もし、あの時、主イエスが声をかけられなかったならば、4人の漁師たちは、その後もガリラヤの漁師としての営みを日々淡々と積み重ねていったことでしょう。後に「使徒」と称される彼らは、特別に感性が鋭かったわけでも、求道心が人一倍あったわけでもなく、当時どこにでもありふれていた普通の人たちでしたが「何も知らない、何も整っていない、完成されていない」そんな、ありのままの自分で、日常の只中に訪れてくださった主イエスの招きに応え、従い、ついて行ったのでした。この一回限りの決断が、彼らの人生を決定的に変える分岐点になったことを思う時、いつの時代も、天の国を目指す偉大な信仰生活の旅路は、このような招きに応える一歩から始まることを思わされるのです。

 

主の招く声に応えた者だけが与れる「永遠の命」があります。ふと、南北21キロもあるというガリラヤ湖の長いほとりを主イエスが歩いておられた時、漁をしていたのは何もこの4人だけではなかったであろうこと、そして主イエスは、福音書には記述されなかったところで、ほとりで出会う人・すれ違う人、すべてに招きの声をかけておられたのではなかったかと思えました。2000年昔のガリラヤ湖のほとりと同様に、4人の漁師を弟子に招かれた主イエスは今もすべての人に招きの声をかけてくださっています。静かに耳を澄ませば「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」(エレミヤ書15)「わたしについてきなさい」という主の招く声が聞こえてくるようです。

 

主の招く声に応えた私たちは、主の御名を伝えるために選ばれた器であって(使徒言行録915)、この器の中身は、私たちが用意するではなく主が満たしてくださいます。たとえ私たちが(迫害者だった伝道者パウロのように)自分ひとりの都合では消せない負い目を担っていても、(預言者に召されたものの自分の言葉や経験に自信がなかった若者エレミヤのように)不安や恐れに陥っても、私たちのあやふやな自覚や都合、周囲からの評価に関係なく、私たちを造り、生かし、招き、「人間をとる漁師」として福音を伝える伝道の御用に用いてくださるのは主なる神なのです。今週も、罪許され、御国の世継ぎとされ、永遠の命が約束された者として、主の招く声に応えた誇りと喜びを胸に、遣わされていく現場で主の御用に用いられてまいりたいと思うのです。

(119日礼拝説教要旨)