説 教

説  教「平安の完成」 指方周平牧師  2013.4)

旧約聖書 旧約聖書 エゼキエル書36:16~28

新約聖書 マタイによる福音書28:1~10

 

人々の罪を身代りに背負って死なれ、十字架から降ろされた主イエスの遺体は、安息日の土曜日が始まろうとしていた金曜日の夕方、墓に納められました。それから3日後。安息日が明けた日曜日の明け方、尽きぬ悲しみに暮れるマグダラのマリアと、もう一人のマリアが主イエスの墓を見に行きますと、主の天使が「恐れることはない。」と声をかけ「あの方は、ここにはおられない。かねてからいわれていたとおり、復活なさったのだ。」と主イエスの復活を宣言しました。そして二人に「遺体の置いてあった場所を見なさい」と墓が空になっていることの確認を促したのです。

この時点で彼女たちが確認したのは、主イエスの「復活そのもの」ではなく「遺体が無くなっていること」だけでした。しかし、彼女たちは、復活を確信したからでも、天使の言葉に納得したからでもなく、不安も期待も、整理できないまま、自分たちに託された弟子たちへの伝言を抱えて、空の墓から走り出したのでした。

すると、そんな彼女たちの行く手に、十字架で死なれたはずの主イエスが「おはよう」という声をかけて現れてくださったというのです。証拠や確信ないまま、不安も期待も整理できないまま、それでも走り出した先に彼女たちが復活の主イエスに出会えたように、信じきることも疑ことも、白黒どちらにも染まりきれない、私たちのありのままの灰色の現実、それでも、走り出す日常の先に、復活の主イエスが訪れてくださることを思います。理屈ではなく、ただ信じることだけを根拠とした姿勢が復活の確信へと作り変えられていくことを思うのです。

二人のマリアは、復活の主イエスに近づくと、その御足を抱いてひれ伏しました。この「ふれ伏す」と記されているギリシャ語は「礼拝する」という意味もあります。礼拝とは、熱心に、まっすぐに、疑いなく信じられる時だけではなく、しばしば迷いや疑い、不安な気持ちも抱えて込む私たちの現実生活の行く手に、静かに現れてくださる主イエスの御許に、このようにひれ伏していくことであると改めて思わされます。

さて、主イエスは彼女たちに「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。」と伝言を預けられました。今朝の聖書舞台に、まだ弟子たちは出てきませんが、おそらく弟子たちは、十字架の前夜、土壇場でイエスを見捨てて逃げてしまった負い目に悶々と悩まされていたことと思います。そんな弟子たちの、悔い改め具合を吟味してから受け容れるのではなく、「兄弟」と変わらない姿勢で呼んでくださる主イエスのお言葉は、主イエスに最後までついていけなかった弱い弟子たちが、すでに赦され、変わらず愛されていることの宣言でもありましょう。そして、この弟子たちの信仰の回復がなくては、この後、主イエスの福音が世界に広がっていかなかったことを思います。

復活の主イエスは、弟子たちとの再会の場所としてガリラヤを指定されました。ここは弟子たちの故郷であると同時に、主イエスが伝道を開始された時、主イエスが彼らを選び出してくださった原点の場所です。「そこでわたしに会うことになる」とは、熱狂や興奮の時にはついていけても、自分の弱さが浮き彫りにされた時には、主イエスではなく自分自身を選んでしまった脆い弟子たち、そのことゆえに、延々と自分を裁き続けることになりかけていた弟子たちを、主イエスが赦し、懐かしいガリラヤの日常生活の中で整え直してくださろうとしていることの表明に思えてなりません。信じてついていけるばかりではなく、疑いや迷いも一緒に混ざっている、そんな中途半端な人間の灰色の現実にこそ、人となられた神の御子がともにいてくださることをあらためて思います。

今朝の聖書舞台で、主イエスは、ご自身で弟子たちの前に現れるのではなく、敢えて手間を踏んで二人のマリアに伝言を預けられましたが、同様に今も、不完全な言葉しか紡ぎ出しえない私たちをお手伝いに召し出して「清め、新しい心と霊を与え、その聖なる名を伝えていく」(エゼキエル書36:2228)御用に用いてくださることを思います。私たちが、たとえ自分の生き方や言葉、信仰生活に自信がなかったとしても、それでも、ありのままの、この私でなければ、主イエスによってかたく完成された平安を伝えられない家族や隣人が主イエスから託されていることを思います。これまでの2000年間、人々の小さな一歩が踏み出される先に聖霊が働いて、福音の波紋は広がってきたように、きっとこれからも私たちのありのままの未熟さや不完全さ、それでも悔い改めを侮らないで礼拝・ふれ伏していくひたむきさを介して、主の平安は伝えられ続けていくのでありましょう。

2013331日礼拝説教要旨)