説 教

説 教「心を見ておられる神」 指方周平牧師   (2013・11)  

招 詞 ヨハネの手紙Ⅰ3:16~17

旧約聖書 創世記4:1~10

新約聖書 マルコによる福音書7:14~23

 

礼拝献金の時に、たまたま私の前に座っていた女の子が、自分の財布を取り出して「なんぼ献金したらええの?」と隣の母親に小声で訊く場面に遭遇したことがあります。

これに対して母親は、「○百円」と具体的な金額を示すのではなく、そっと「惜しいと思える位を献金したらええんよ」と教えておりました。

献げ物の本質を捉えたあの短い会話は、今も私の心に鮮烈に残っております。

 

今朝の旧約聖書舞台で、カインとアベルは自分の働きの中から得た収穫を携えて主なる神の御前に進み出て、農耕者カインは土の実りをささげ、牧羊者アベルは羊の群れの中から、肥えた初子を持って来てささげました。

しかし、主なる神はカインとその献げ物には目を留められなかったといいます。なぜ、主なる神はアベルとその献げ物だけに目を留められたのでしょうか。

カインは「土の実りを持って来た」としか記述されていませんが、アベルは、無くなっても惜しくない羊を持ってくるのではなく「群れの中から、肥えた初子」と、選り優りの羊を持ってきたことが記述されております。

主なる神への献げ物とは、税金のように義務感でなされるものではありません。主なる神は、献げ物を携えてきた2人の心をご覧になられたことを思うのです。

 

今朝の新約聖書箇所において、主イエスは「人の中から出てくるものが、人を汚す」「人から出てくるものこそ、人を汚す」「人間の心から、悪い思いが出てくる」「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」と4回も人間の心の中を取り上げられて、あらゆる罪悪が、祭儀的・衛生的な汚れからではなく、人の心の中から出てくることをおっしゃられましたが、この御言葉を踏まえて、私たち自身の心とは、どういう状態なのかを改めて思うのです。

来週から待降節・アドベントに入りますが、主イエスの御降誕・クリスマスが近づくと、学生時代に聞いた岸義紘牧師のメッセージを思い出します。それは、暗くて不衛生、人が決して近づきたがらない、人を迎えるような場所でもない、真夜中の不気味な家畜小屋の、臭くて汚い飼い葉桶の中に生まれてくださった主イエスは、私たちの罪悪にまみれた心の中にもお生まれくださるというメッセージです。

 

私たちを救い出すために身代りになって命を与えてくださった救い主をお迎えする準備が今年も始まります。カインとアベルの献げ物において、それを携えてきた心を求めておられた主なる神。心の中から出てくる悪い言葉や思いこそが人を汚すとはっきりとおっしゃられた主イエス。私たちは、外側の演技ではなく、内なる心を見据えておられる方をお迎えするに際して、どのように自分自身の内側を整えるのでしょうか。

今朝の交読詩編51編において、自らの罪を告白し、罪の赦しと清めを求めたダビデは19節において「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」と告白しました。クリスマスに向けて様々な準備がありますが、私たちを救うために心に宿ってくださる救い主をお迎えするために何よりも忘れてはならない準備とは、高ぶりや開き直りを捨てた悔い改めに他なりません。そのようにして、自分自身を生きた聖なる供え物として救い主に献げる準備を、今週も遣わされていく日常生活の雑踏の中において、へりくだりと悔い改めを侮らないで祈り、主を待ち望みつつ整えてまいりたいと思うのです。

 

20131124日礼拝説教要旨)