説 教「才能・賜物の用い方」 牧師 指方周平     (2013・10)

新約聖書 マタイによる福音書25:14~30

 

主イエスは、神の身許における人のあり方を「タラントン」のたとえとして教えてくださいました。主人から5タラントンを預けられた僕は、それを基に商売を始めて更に5タラントン儲け、2タラントン預けられた僕も同様に2タラントン儲けたといいます。しかし1タラントン預かった僕は、損失を恐れて地面に埋めて保管したといいます。預かった額は3人の中で一番少なくとも1タラントン(約5000万円)は大金です。先の2人は成功して儲かったから良かったものの、失敗していたら全て失っていたかもしれません。1タラントン預かった僕は、リスク回避を選んだ最も慎重で確実な処理をした僕だったと見ることもできましょう。しかし、これは資産運用の損得や、能力活用の話ではありません。

 

5タラントンも1タラントンも確かに大金ですが、それを「わずかなもの」と言い切る主人にとって、僕たちに預けた資産が目減りしたり、いっそのこと無くなってしまったところで、それがどれほどの損失だったろうかと思います。それよりも、先の2人の僕が、預かったタラントンという賜物をどのように用いたのか報告を聞いて「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」とねぎらった主人にとって、僕たちを信頼して預けた賜物がいくらか増えることよりも、僕たちが信頼されている喜びをもって、それを活き活きと用いることこそ主人の何よりの願いではなかったかと思えるのです。それを思う時、1タラントンを預けられた僕が、主人に愛されている恵みを素直に喜ばず、目減りさせること、失敗することばかりを窮屈に恐れて与えられた賜物を地の中に隠してしまったこと、主人に対して「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」と猜疑心さえも抱いてしまったことは主人の本意ではありませんでした。

 

義務や責任を果たす生き方は確かに立派ですが、それらは必ずしも喜んで生きていることとはつながりがないことを思います。律法を厳粛に守っていたファリサイ派の人々の生き方は、主イエスが「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ520)とおっしゃられたほどに、厳格で、緻密で、立派でしたが、その実際は、主なる神に赦され、受け容れられ、恵みを注がれて生かされているという湧き上がる喜びからは程遠い、律法の枠からはみ出る失敗や、既に持っているものの目減りばかりを恐れて、愛されているという圧倒的な恵みをも地に埋めて隠すような窮屈で退屈な生き方でした。

 

主なる神から与えられた才能・賜物の用い方とは、僅かでも増やしたり、寸暇を惜しんで活用する以前に、与えられている恵みを感謝して味わい、その賜物の背後にある主なる神の愛と信頼を素直に喜ぶことでありましょう。ありのままの自分が、主なる神にこんなにも愛されている、こんなにも無限の可能性を託されているという喜びを隠さないことは、誰にでも今すぐに始めることができる才能と賜物の有効な用い方です。ありのままの自分にもったいないほどに注がれている主なる神の信頼と恵みに遠慮をしないで、与えられている主なる神の愛という圧倒的な賜物を素直に喜びながら隣人と分かち合って生きていく先に、おのずと「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」という、天の国の祝宴に招かれる道が静かに整えられていくのでしょう。

 

20131013日説教要旨)