説 教

説教「演技の通用しない領域」牧師 指方周平      (2013.7)

招 詞 使徒言行録19:15

旧約聖書 エレミヤ書7:1~7

新約聖書 マタイによる福音書7:15~29

 

今日の聖書場面で、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々を「羊の皮をまとった貪欲な狼」に例えて「偽預言者を警戒しなさい」と人々に注意を促しておられます。ユダヤにおける宗教指導者であった彼らの生活は、律法に則って厳格に組み立てられており、敬虔で非の打ちどころがありませんでした。ただ、それはしばしば形式的・表面的なことに終始しており、宗教指導者たちの心が、律法を制定された主なる神の御心を、必ずしも揺るがぬ土台としていなかったことを主イエスは見抜いておられました。

 

「偽善」を指すギリシャ語「ヒュポクリテース」は「演技する者・俳優」をも指しております。「演じる」といいますと、裏と表を使い分けているような偽善的な響きもしますが、ポール・トゥルニエという精神科医は、人は、自分に求められている役割や責任を果たし、自分が追い求めているイメージ(ペルソナージュ)を追求していく中でこそ、神に作られたままの自分(ペルソン)と出会うことができると語っております。律法学者やファリサイ派の人々も、律法によって要求されている状態を満たすことで、主なる神の御心に適った姿に至ろうとしていたのは間違いありません。ただ、そんな彼らに欠落してしまった決定的な視点があったことを思います。それは神の目です。

 

宗教指導者たちが、律法の要求に対してストイックに応じて、その型に身を削りながら当てはめていった姿勢は、次第に、自分と同じようには律法を守っていない・守れない人々への批判へと転化していきました。それによって周りの人々の様子に気を取られ始めた姿勢は、心の底までも見通される主なる神だけを絶対唯一の基準とするのではなく、いつしか、自分の敬虔な生き様を見ている人の目を自分の人生の観客・人生の主人として、表面だけを形式的に仰々しく繕う欺瞞の演技に陥っていたことを思います。人の目を気にする限り、一目置かれたくなるのは人の常でありましょうが、律法によっては、自力で水準を満たせない現実、人間の罪深さに気付かないほど内面への感性を鈍らせていた宗教指導者たちの、悔い改めを侮った傲慢な姿勢を、主イエスが厳しく「偽預言者」「偽善者」と指摘されたことを思います。

 

宗教指導者たちの的外れた態度に影響を受けないよう人々に注意を与えられた主イエスは「主よ、主よ」と、律法を棒読みしたように形だけの演技をする者ではなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛する」者、「隣人を自分のように愛する」者、「自分がしてほしいと思うことを人にする」者と言った具合に、律法を定められた天の父なる神の御心を、あらゆる場面で愚直に実践していく者こそ、主なる神に受け入れられ、天の国に入れることをはっきりと語られました。

主イエスの教えを聞いた人々は、主イエスが、ぎこちない借り物のセリフではなく、自分自身の言葉で、堂々と教えられるのを聞いて非常に驚いたといいますが、それは主イエスの中に、敬虔な演技で身を装う必要などない、ありのままで主なる神の御前に立ち、そして受け入れられている安心に満ちた神の御子の自由な立ち振る舞いを、権威あるものとして見たからでありましょう。今朝の主イエスの言葉を踏まえて、自分自身の生き様を見つめ直す時、果たして、今、自分は、どこを舞台として、何を土台とし、誰の目を一番意識して立っているのかを率直に反省させられるのです。

                                                  

2013.7.7説教要旨)