説 教

説  教 「祈るときには」 指方周平牧師  (2013.5)
旧約聖書 列王記上18:20~39
新約聖書 マタイによる福音書6:1~15

 

今日の新約聖書舞台に新共同訳聖書は「祈るときには」という見出しをつけています。詩編51編には「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(9節)とうたわれており、主イエスもこの箇所を度々引いて「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイによる福音書9:13、12:7)と語っておられます。約2000年昔の当時、ファリサイ派の人々は自分の信仰深さを人々にアピールするため、わざわざ会堂や大通りの角に立って祈っていたといいます。しかし、これは祈りではなく演技です。主イエスは「祈る」という、神の前にへりくだる大切な行為が、このような本末転倒に足をすくわれないために「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」と教えてくださいました。

かつて旧約時代の預言者エリヤは、イスラエルの主なる神と、偶像バアルでは、どちらが本当の神なのかを迷っている人々に、はっきり本当の神を示すべく、カルメル山においてバアルの預言者たちと対決しました。その対決方法とは、主なる神とバアルへの二つの祭壇を築き、それぞれにいけにえの雄牛を献げ「火をもって答える神こそ神である」とする単純明快な方法でした。先攻したバアルの預言者たちは、大声で叫びながら祭壇の周りを跳び回り、自らの体を傷付け、血まで流しながら必死で祈りましたが、朝から真昼まで数時間に至った騒々しい祈り、虚しい演技に答える者はどこにもありませんでした。しかし、エリヤが「神は答えてくださる方である」という信仰、自分は、すでに主なる神によって受け容れられているという全幅の信頼から祈りを紡ぎ出した時、主なる神は、エリヤの祈りを確かに聞き届けて、ご自身に献げられたいけにえを祭壇ごと火で飲み尽くし、ご自分の存在を迷う人々に示してくださいました。
エリヤも主イエスも、主なる神が、何とか自分たちの都合に答えてくださるように頑張って祈るのではなく、既に、主なる神によって受け容れられていること、故に、主なる神が必ず応答してくださるという信頼を前提として祈っていることを思います。

願い、悔い改め、執り成し、感謝。私たちは様々な祈りを紡ぎますが、私たちの抱える身勝手な自覚や都合、深く捕えられている思い込みに関係なく、既に、私たちは、主イエスの十字架と復活のゆえに、主なる神によって罪許され、かけがえのない者として受け容れられ、御子の命が与えられるほどに愛されており、永遠の命まで約束されていることを立ち止まって思う時、これ以上、何をくどくどと祈り求める必要があるのだろうかと思います。今朝の聖書舞台で、主イエスは「だから、こう祈りなさい」とおっしゃって「主の祈り」を教えてくださいました。私たちが毎週の礼拝や祈祷会で共に唱和している「主の祈り」は、簡潔で短い祈りですが、この祈りには、自分の頑張りやあやふやな自覚に関係なく、既に主なる神にかけがえのない者として受け容れられている安心、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」という信頼を前提として紡ぎ出されていることを思います。偶像バアルの預言者や、律法学者・ファリサイ派の人々のように、人目を勘定に入れた大げさなアピールではなく、ただ、主なる神への悔い改めを侮らない祈りによってこそ、主なる神の御心と、私たちの願いや身勝手な生き様との間にある隙間が、静かに、着実に埋められていくのでしょう。

かけがえのない御子イエスを与えるほどに私たちを愛してくださっている主なる神は、主イエスの十字架の愛に免じて必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちの感覚や都合で、祈りへの答えが遅いように感じられても、忘れられているように感じられても、行き先を知らないままアブラハムを導かれた主なる神は、今も私たちと共にいて、私たちが、どんな未知なる状況、歩いたことのない道の前に立たされたとしても、私たちの不安や恐れ、願い、とりなしを無視することなく聞き届け、道を整えてくださるのです。私たちが「主の御名によって祈る」とは、そういうことでありましょう。
                 (2013年5月5日礼拝説教要旨)