説 教

説 教「神を宿す宮として」 指方周平牧師  (2014・2)

招 詞 コリントの信徒への手紙 6:19~20

旧約聖書 歴代誌上29:10~19

新約聖書 マルコによる福音書1:40~45

 

今朝の新約聖書舞台は、重い皮膚病を患っていた人が主イエスの御許にやって来て癒しを求めた場面です。

古代の人々にとって、一目瞭然の病変が現れる皮膚病とは、単なる病気ではなく罪の報いや神の呪いの現れと見なされておりました。それゆえ「汚れている」と診断された重い皮膚病の患者は、周囲の人々から汚れや呪いの源として見なされ、寂しい隔離場所に強制的に追放されていたのでした。

主イエスは、そんな場所から御許にやって来て「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」とひざまずいて願うこの人を「深く憐れまれた」といいます。

そして、触れた人も汚れるとされていた患部に手を差し伸べて「清くなれ」と主イエスがおっしゃられると、たちまち病は去って、この人は清くなったといいます。

 

たとえ、文字通りの重い皮膚病を患っていなかったとしても、私たちも自分が望んだわけではない病気や困難を自分の意に反して背負わされる時があります。

その意味で、決して自分が望んだわけではない病を患い、人々の裁きや蔑みによって強制隔離され、先行き見えない鬱々した日々を、じっと耐えて過ごしていたであろうこの人は、2000年昔の誰かではなく、実は、21世紀の今を生きる私たち11人の姿でもあることを思います。

主イエスに出会ったこの人にとって、どうにもならなかった状況から解放されたことは長年の願いの成就ではあったでしょうが、それと同じくらいに、主イエスが他の人と同じように、自分を忌み嫌って遠ざかるのではなく、はらわたを突き動かされるほどの関心と憐みをもって自分に近づき、直に痛みに触れて寄り添ってくださったということは、この人の生き方に、大きな転機をもたらしたことを思います。

この人は、そこを立ち去ると、厳しく禁じられていたにも関わらず、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めたといいます。

 

主イエスに出会って救われた私たちは、今朝の旧約聖書に登場してくるダビデ王やソロモン王のように、信仰告白の結晶として荘厳な建物としての神殿を建てられないとしても、あの重い皮膚病を癒された人のように、この自分でなければ建てることのできない喜びと感謝の証を心に秘めています。

そして、主イエスのように奇跡的に隣人の困難を癒すことができなくても、主イエスのように困難や苦しみのただ中にいる隣人に寄り添うことはできるのです。

今朝の招きの言葉においてパウロは「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と宣言していますが、かつて飼い葉桶に生まれてくださった主イエスは、今も、私たちの心の中にお生まれくださり、私たちを「神を宿す宮」としてくださることを思います。

主イエスを宿す11人として、今週もこれから遣わされていく現場で、他の誰でもない、この自分でなければ福音を伝えることのできない困難な状況にある隣人に向けて「あなたは主イエスが十字架で身代りに命を捨てられるほどに尊い存在である」「あなたの中に住んで、共にいてくださる方がおられる」と一言でも伝え、一歩でも寄り添って、こつこつと神の国の建設に携わることができたらと願うのです。

 

2014.2.2礼拝説教要旨)