説 教 「それは何に根差しているか」 指方周平牧師 (20153月)

聖 書 ルカによる福音書11:14~26

 

 「ベルゼブル論争」と表題がつけられております聖書舞台では、主イエスに向かって「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と難癖をつけた反対者がいたことが記されております。この場面を読み直してみますと、主イエスをののしった者も主イエスの癒しの業を間近で目撃していたことが分かります。それなのに事実を見てなお主イエスに敵意をむき出しにした頑なさは一体何に根差していたのかを思うのです。

 

数年前、障がい者団体向けの郵便料金割引制度を巡って、不正な書類を造った疑いで厚生労働省の女性官僚が逮捕される事件がありました。あの事件は、取り調べの担当検事が自ら思い描いた事件の全貌に現実を合致させるために証拠を捏造していたことが明るみになり、女性官僚の無罪が明らかになって逆に担当検事が逮捕されるという異例の展開になりました。これを知った時、真実を明らかにする使命に立っているはずの検事であっても、自分が思い描いた事件のストーリーへ誘導するためには、無実の人に濡れ衣を着せるのかと恐ろしく思いました。しかし、実は、あの担当検事だけが特別によこしまな人間だったのではなく、人は誰しも自分の考えや思いを貫き通すためには、真実に蓋をし、無罪の人をも陥れようとする誘惑と決して無縁ではないことを思い起こすのです。

 

人は正義や信念に駆り立てられている時ほど真実への謙虚な姿勢や自分自身を見失ってしまう的外れな存在です。思い起こせば、謀略の末に主イエスを十字架につけたファリサイ派の人々や、祭司、民の長老たちは自らの信じる正しさを譲らない人々でした。彼らとて、主イエスが死刑にならなければならないような悪人ではないことはよく分かっていたはずです。それにもかかわらず彼らが主イエスを十字架につけたのは「自分たちの伝統や信仰こそ絶対なのだ」という思いを頑なに貫くためであったことを思い起こすのです。今も世界中で起こっている戦争の当事者たちは「正義は我らの側にある」と声高に自らの正しさを訴えながら聖書やクルアーンの言葉さえ恣意的に利用して戦争していますが、自らを正しいと言い張り続けるためには、真実を否定すること、神を利用することさえ犯しかねない自己中心な姿勢(ヨブ記408)こそ、聖書が語る人間の罪の本質です。

 

私たちキリスト者は、罪を犯さない完璧な存在とされたのではなく、救われてなお、この地上の訓練の旅路にある限りは自分を第一とする誘惑、自分を正しいとする頑なさから自由ではありません。今、私たちは、主イエスが顔の見えないどこかの誰かのために十字架に架かったのではなく、この私の罪の身代わりのために十字架に架かられたことを思い巡らせる受難節を過ごしておりますが、同時に主イエスを十字架に打ちつけたのは顔の見えないどこかの誰かではなく「私は間違っていない」と自らの正しさや信念を叫び続けた自分自身であることを忘れてはなりません。そんな心を見抜かれてなお「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ2334)とおっしゃってくださった十字架の主イエスの前に立たされる時、私たちはこれ以上自分の何を主張するのでしょうか。不都合な真実を無視しない勇気こそが悔い改めです。自らの信念や正しさの根を探り直しつつ、私たちを救うために私たちの罪を身代りに背負い、十字架につけられた主イエスの御生涯に自らの生き様を照らし合わせつつ、来る復活節イースターに備えて参りたいのです。


201531日礼拝説教要旨)

 

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