説教

説 教「御心に適うこと」指方周平牧師    (2014年4月)

新約聖書 マルコによる福音書143242

 

マタイによる福音書6章やルカによる福音書11章には、主イエスが弟子たちに「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6910)と、祈りを教えられた場面が出てきます。その舞台について福音書に直接の記述はないのですが、様々な資料を辿る中、主イエスが弟子たちに祈りを教えられた「ある場所」(ルカ11:1)とは、今日の聖書舞台であるゲツセマネ(「油絞り」という意味)だったのかもしれないと強く思いました。十字架の前夜、主イエスは、ここゲツセマネに辿り着かれると、ひどく恐れてもだえ始め「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と弟子たちにおっしゃり、1人先に進んでいって地面にひれ伏し「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られ始めたといいます。

 

「アッバ」とはアラム語で「お父さん」という意味であり、祈りの土台には「お父さん、あなたに不可能はありません」という揺るがぬ信頼があることを思いますが、この信頼関係の中で主イエスが真っ先に祈り求められたのは「この杯をわたしから取りのけてください」という正直な願いでした。ここから読み取れますのは、主イエスが翌朝に迫った十字架に対して抱いておられた絶望と恐怖です。神が人となられたということは、心は神のまま、体だけが人間になったということではありません。困難には迷い、恐怖や悲しみにおののき、そういった感情を雑多に抱える存在が人間です。神が人になられたということは、肉体の弱さや恐れとも無縁ではなくなったということであり、主イエスは、そのような人間のどうしようもない現実をも味わってくださったことを思うのです。主イエスにとって、翌朝に迫った十字架は、自分に定められた使命として毅然と受け止められる運命ではなく、やはり避けることができるなら天のお父さんに何とかしてもらいたい恐怖と絶望の杯だったことを思います。

 

ただ、主イエスの祈りは、これで途切れませんでした。ご自身の思いを率直に紡ぎだされた主イエスは「しかし」という接続詞に続けて「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と、かつて弟子たちに教えられたように、ご自身の思いを天のお父さんに向けて絞り出していかれます。ゲツセマネにおける主イエスの祈りは、同じ祈りの中にありながら「しかし」という接続詞の前と後とでは全く相反する内容です。そして、主イエスが同じ言葉で繰り返し祈られたこの祈りから、祈りとは自分の願望を頑なに貫き通すことでも、自分の思いを押し殺して「御心がなりますように」と従順に形を整えることでもなく、まとまらない思いや願い、やるせない気持ちや悲しさ、困惑をごまかしなく率直に、そのまま天の父なる神の御前に注ぎ出す中、それでも「しかし」の反復によって練り整えられていく主なる神との真剣な対話であることを示された思いがしました。

 

祈る時に、意志と感情との歩幅が揃わず、言葉が切り出せずにどう祈ったらよいのか困惑することは私たちにもよくあることですが、御心に適うことを求める真実な祈りには、ゲツセマネの主イエスの祈りのように、自分の思いと神の御心の解離を何とか橋渡ししようとする「しかし」という聖霊の働きが何度も何度も繰り返されていることを思うのです。

 

2014413日礼拝説教要旨)