説 教 「神の業の舞台」  指方周平牧師  (20152月)

旧 約 ヨブ記2:1~10

新 約 ルカによる福音書5:12~26

  

「この世には、どうして意味の見出せない苦難や悲しみがあるのか」これは文化や時代を超えて問われ続けてきた人間の不朽のテーマです。「災難は過去の行い、ともすれば先祖の犯した罪の報いである」とする因果応報的理解は古来より苦難の理由を得る理屈として用いられ、国を滅ぼされた歴史を持つイスラエルでもバビロン捕囚の苦難は主なる神に聴き従わなかった罪の報いとして理解されておりました。旧約聖書のヨブ記では、義人ヨブを襲った突然の苦難を巡ってヨブと友人たちとの長い対話から、なぜ神は人を苦しませるのか、苦難は罪の結果なのかと人間の苦難の意味が延々と問われています。そんなヨブ記の冒頭から端的に示されますのは、主なる神によって「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」と認められた義人ヨブさえそうであったように、人は誰しもその生き様に関係なく理由の分からない苦難や悲しみに投げ込まれる時があるということです。

 

今朝の新約聖書には重い皮膚病を患った人が主イエスの前に登場してきます。病が罪の報いと見なされていたこの時代、一目瞭然の病変が現れる重い皮膚病は神に呪われた最たる状態として人々から忌み嫌われていましたが、主イエスがこの人に手を触れて「清くなれ」と言われるとたちまち癒されたといいます。続けて主イエスの前に麻痺で寝たきりの人を台に載せた男たちがやってきます。ご自身を信頼して不自由な仲間を懸命に担いできた男たちをご覧になられた主イエスは、寝かされている人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言し、癒されました。このように主イエスは、罪の報いと見なされていた病を癒すことによって、ご自身が罪を赦す権威を持った救い主であることを人々に示されたのでした。

 

文字通りの病ではなかったとしても、私たちもまた原因や解決の見いだせない状況に飲み込まれる時があり、それまであたりまえだった存在や状態が突然切り取られる喪失の体験を時々します。そして先行きが見えなくなった中で「この困難は、あの時の報いだろうか」という考えに飲み込まれることもないわけではありません。しかし、そのように苦しんだ時ほど祈ったこともなかったことを思い出すのです。重い皮膚病を患っていた人は、病を患わないで家族と普通の生活を営んでいたのならば、主イエスと出会わなかったかもしれません。麻痺で寝たきりだった人も、仲間と元気に働いていたのならば、主イエスを訪ねて行かなかったかもしれません。何より、この自分にやましさや後悔、何の罪の痛みも無かったなら、主イエスの赦しや救いを求めなかったかもしれません。

 

主イエスは生まれつき目の見えない人が、そう生まれた理由について「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とおっしゃられました。この世において、限られた時間しか与えられていない私たちには、全ての苦難や悲しみの意味は分かりませんが、それでも十字架の絶望の死からも永遠の命の希望を紡ぎ出される神の業には、必ず深い御旨が秘められていると信じます。私たちが、自分の力ではどうすることもできない痛みの中から、それでも主イエスに助けを祈り求める時、実は、その悲しみこそが、この世の浮き沈みには左右されない神の業があらわれる舞台、この私を救うために十字架を背負ってくださった主イエスと出会う窓口、死で終わりではない永遠の神の国の入り口となるのでしょう。

 (201528日礼拝説教要旨)