説 教

説  教 「祭壇の石」 指方周平牧師           2014年5月)

聖  書  出エジプト記202425、申命記2718 

 

去るペンテコステ礼拝では、私の息子が信仰を告白して洗礼を受けることができました。洗礼を受けたいと言い出した時、この子は罪や十字架の贖い、救いの意味がどれくらい分かっているのだろうかと思いましたが、息子と話をする中で示されたのは、この子にとってイエスを主と告白することは難しい理屈ではなく、いつも心に巡らせている主なる神への素直な思いや率直な感謝を、礼拝の中で公に言い表すだけの自然な行為であるということでした。5000人の空腹の男を前に少年が持っていた五つのパンと二匹の魚のように(ヨハネ69)ささやかで役に立たないようであっても、その純粋な思いが、あの子から神様への尊い献げ物であり、必ずしも理路整然とはしていない理解や言葉のままであっても、あの子が、ありのまま主イエスに差し出そうとする率直な感謝や思いを、主なる神は喜んで受け入れて、栄光の業に用いてくださるのだと教えられました。

 

小学5年生の素朴で真摯な信仰告白を礼拝で聴きつつ思い出したのは出エジプト記20章や申命記27章において登場してくる祭壇に用いられる石のことでした。主なる神は、エジプトから導き出したイスラエルの民が、御自身への献げ物をするために石で祭壇を造る時には、鉄の道具を石にあててはならない、道具を当てると石がけがされてしまうので、自然なままの石で主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさいとお命じになられました。今も巨大遺跡が残るエジプトで労働作業についていたイスラエルの民ならば、石材加工に関する高等技術も持っていたであろうに、なぜ主なる神は、不揃いでボコボコした自然のままの石でなければならないとおっしゃられたのか、そのことを思い巡らせるうちに、ある牧師が書いたエッセイを思い出しました。

 

「一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としてはまとまりが良いわけで、団体を構成する時に、そういう配慮をするのは当然でしょう。しかし、そのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。

教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。」

(「断想 神の風景 人間と世間」藤木正三著)

 

教会においては、ある目的に向けて意見を擦り合わせて一つに大きく立派に組み合わせていくことよりも、噛み合わないままの大小さまざまな意見が、不揃いなまま、雑然とした形のまま、それでもひとつひとつの存在が忘れられることなく大切にされて、教会の頭である主によって組み合わされていく先に、人間のこだわりによって汚されていない、主なる神様に感謝と賛美を献げる祭壇が造り上げられていくことを思います。教会という組織にあっては「何かをする」こと以前に「一緒にいる」ということが、すでに主の体としての教会の目的を達成していることを思います。こうもバラバラで不揃いな私たちを、あるがままに愛し、ご自身の体である教会に招いてくださった主イエスは、この時代、この場所に集められた私たちでなければ形作ることのできない感謝と賛美、福音の狼煙を上げる祭壇を私たちという石で組み上げるために、私たちの思いを超えて、多様な個性を持った私たちに聖霊を注いでくださっていることを思い巡らせるのです。

 

2014.6.14役員監事研修会開会礼拝説教要旨)