説教 「主の道をまっすぐに」指方周平牧師(2015年12月)

聖書 ヨハネによる福音書1:19~28

 

高校時代に「神さまに救われている」という実感がないことに苦しんだクリスチャンの証を聞いたことがあります。真実であろうとすればするほど、神さまに救われている実感がないことを苦しんだその方が、ある時、無教会主義の伝道者・高橋三郎先生に心を打ち明けたところ、高橋先生は次のようなたとえ話をされたそうです。「火事場から赤ん坊が救い出されたとして、その子に救われた実感があるだろうか。しかしその子が成長して、炎の只中に取り残されていた自分を救い出してくれた人がいたと聞かされた時に、たとえ自分では覚えていなくても救い出された事実があって今を生きていることに、いつか必ず気付くだろう。」

 

今朝の聖書箇所は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えながらユダヤ人たちに洗礼を授けていたヨハネに向かって、ユダヤ教を厳格に守っていた人たちが「あなたは(中略)なぜ、洗礼を授けるのですか」と怪訝に質問をした場面です。これはユダヤ教における洗礼が、ユダヤ教に改宗する人に、割礼に先んじて施された清めの儀式であって、すでにユダヤ人である人には必要なかったからです。しかしヨハネは「自分たちは神の民である」と胡坐をかいているユダヤ人たちにこそ悔い改めが必要であると考えて、敢えてユダヤ人たちにも洗礼を授けていました。旧約聖書の預言者たちが救い主の先駆者として登場を預言していたヨハネは、悔い改めによって心を神さまに向けることで、救い主をお迎えする心備えをするように「主の道をまっすぐにせよ」と人々に訴えていたのです。

 

信仰生活を続けておりますと、聖書の言葉は次第に覚えていきますし、祈ることは日常のこととなり、教会との関わりにも慣れてきます。ただ、単なる習慣としての信仰生活ではなく、自分をごまかさずに神さまと向き合おうとする信仰生活を重ねておりますと、年を経るごとにイエスさまに似て立派になるどころか、自分が神さまの願っておられる状態からいかに遠いどうしようもない存在であるかを容赦なく浮き彫りにされていくのではないでしょうか。しかし、そんな自分を裁くためではなく、どんな自分であっても神さまにしっかり愛されていることを私たちに伝えるために、神さまであるイエスさまはこの世界にお越しくださいました。イエスさまの誕生を記念するクリスマスは、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合に関係なく、神さまに無条件で愛されている恵みの事実に立ち帰って行く時なのです。

 

救い主の到来に先立って、ヨハネは人々に「悔い改めよ」「主の道をまっすぐにせよ」と訴えましたが、本当の悔い改めは「あれができない、これもだめ。神さま、こんな自分ですみません」と自省するだけにとどまりません。そこからさらに、どんな自分であっても神さまに無条件で愛されている驚きと感謝を1つ1つ丁寧に数えながら、神さまに心を向けていくこと。それこそが真の謙遜によって裏打ちされた悔い改めであり、何より忘れてはならないクリスマスの準備でありましょう。そのような真の悔い改めによって、今年のクリスマスも、イエスさまと私たちを結んでいる道をまっすぐに見つめ直したいのです。

 

(2015年12月13日 礼拝説教要旨)