説  教 「一緒に喜ぶため」 指方周平牧師(2015年6月)

新約聖書 ルカによる福音書15:1~1

 

「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」「銀貨を10枚持っている女がいて、その1枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」これらは、主イエスがユダヤの掟の要求には程遠い状態の人々と一緒におられることに不平を訴えたユダヤの指導者たちに語られた例え話です。この話から分かるのは、掟に従って厳格に生きていた真面目な人々が見下していた不完全な状態の人々こそ、主イエスにとっては決して諦めることのできない1匹の羊、1枚の銀貨であったということです。

 

「捜す」とは、持っている物の数が新たに増えるという生産活動ではなく、本来の状態が損なわれ、それを回復していくことに力を注ぐ修復作業です。ゼロにプラスを加えていくのではなく、マイナスをゼロに戻していく手間。いつの時代も私たち人間は、そのような非生産的な労苦を嫌います。しかし主イエスは、100匹もいるから1匹くらい仕方ない、9枚あればしばらく困らないという開き直った諦めではなく、失われた1匹、1枚に例えられる、失われたままの魂を見つかるまで捜し求められる御自身の無駄を惜しまぬ愛を、この例え話によって証しておられるのです。

 

主イエスは、この例え話を通して、御自身が不完全な状態の人々と一緒にいることに不平を訴えたユダヤの指導者たちに、あなたたちも「一緒に喜んでください」と2度呼びかけておられます。ルカによる福音書15章には有名な「放蕩息子のたとえ」も語られておりますが、家出してしまった弟が帰ってきたことを一緒に喜ぶことのできなかった真面目な兄を邪魔したのは、弟のわがままを咎めなかった父に対する不平と、惨めに帰ってきながら王様のように迎え入れられた弟に対する嫉妬でした。誰しも思い通りにならない歩みをしているのですから、悲しみや挫折に同情することは難しくありませんが「一緒に喜んでください」という御言葉に自分の生き様を照らし合わせてみますと、真面目なユダヤの指導者たちがそうであったように、不平や嫉妬にすぐに邪魔される自分、一緒に喜ぶことが難しい自分を思わされます。しかし私たちは、人の弱さを見限って切り捨てる側にいるのではなく、失われた1匹の羊、無くなった1枚の銀貨のように、失われていた状態から捜し出された側にいること、それを天に喜ばれた存在であることを思い起こして、傷ついた魂が見出され、回復されていくことを一緒に喜べる者でありたいのです。

 

私たちは「一緒に喜ぶため」に教会の交わりに招かれています。その中にあっては創造的で生産的な活動ばかりではなく、マイナスからゼロを目指さなければならないような作業、大海に一滴を注ぎ続けるように先行きが見えてこない祈りもあります。しかし主イエスは身代わりになって死んだところで、信じるかどうかも分からないような不確かな私たちを救うために十字架にかかって死んでくださったのです。だからこそ私たちは不平や裁きの誘惑に陥ることなく、失われていた私たち1人1人が無駄や手間を惜しまない主イエスの愛によって1匹の羊、1枚の銀貨のように捜し出されたことを忘れないで、神の子として回復された救いの恵みを一緒に喜びながら、共に主イエスの御跡を辿って参りたいのです。

               

                  (2015年6月21日聖日礼拝説教要旨)

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