説教 「放蕩息子のたとえ」指方周平牧師(2015年9月)

聖書 ルカによる福音書15:11~32

 

今日は主イエスが語られた「放蕩息子のたとえ」に聴きながら私たちの立脚点を見つめ直したいのです。ある裕福な人に2人の息子がおりましたが、ある時、下の息子が「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と願ったので、父親は生前贈与してやりました。財産を手にした弟は父の家を飛び出して遠い国で贅沢三昧の放蕩を楽しんだのですが、財産を使い果たしたところに飢饉が重なり、弟は困窮状態に陥りました。ようやく我に返った弟は「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」との言い訳を携えて父の家に帰ったのでしたが、父親は惨めに帰ってきた下の息子を叱るどころか、失われていた息子が生きて帰ってきたと宴会まで開いて迎え入れてくれたのでした。

 

羽振り良い生き様で自分を飾ろうとした末に破たんした弟を、父親は反省の結果ではなく、息子としての存在ゆえに大喜びで受け入れた「放蕩息子のたとえ」から、主なる神とは父なる神であられ、その愛は無条件で与えられることを教えられるのですが、実は、このたとえ話は皆がメデタシメデタシでは終わっておりません。弟が家を飛び出した後も父の家に留まって忠実に仕えていた兄は、弟の帰りを父親が大喜びしていると聞くと怒って家に入ろうとしなかったといいます。「あれは自業自得じゃないか」「あいつ以上に自分は頑張っているのに」といった成果主義や比較から自由になれない私たちにとって、帰ってきた弟と、大喜びで弟を迎え入れた父親とに対して、兄が著しい嫉妬や不公平感を抱いたというのは分からない話ではありません。そして、この兄と弟に自らの生き様や在り方を照らし合わせる時、果たして自分はどちら側に立って生きているのかを思うのです。

 

私は自らの在り方を吟味する時、兄と弟のどちらか一つではなく、実はひとりの自分の中に、家を飛び出した弟も、父のそばに留まり続けた生真面目な兄も一緒に同居していることに気付かされます。そして私たちの生き様が、喜びや感謝が見出せないほど堅苦しい兄と、放蕩の誘惑に惑わされた芯のない弟との間で、定まることなく揺れ続けていても、私たちに注がれている父なる神の圧倒的な愛は、私たちの不確かな生き様や自覚に一切左右されないという安心に心和らぎます。私たちは、いかに生きて来たかという人の経歴や過去、今、何をなしているかという生き様で人を評価しようとします。しかし全ての人間をご自身に似せて造られ、主イエスを与えるほどに全ての人間を愛しておられる父なる神の愛の前で、人に優劣や分け隔ては一切ありません。

 

私たちに永遠の幸せ、無くならない安心をもたらすのは、私たちの努力や生き様ではなく、ありのままの私たちに注がれている父なる神の愛です。「放蕩息子のたとえ」は、私たちがどのように生きるべきかという教訓以前に、私たちの土台がどこにあるのかを示しています。兄のように父の家に留まり続けているか、弟のように父の御許に立ち返っているか。兄の生真面目さも弟のだらしなさも併せ持つ私たちだからこそ、自分の立脚点を吟味しながら「アッバ・父よ」と主なる神を呼び求めることを教えてくださった主イエスの御跡を辿って、今日も父の家を目指すのです。

(2015年9月13日礼拝説教要旨)

 

Rembrandt Harmensz. van Rijn  The Return of the Prodigal Son 1668

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