説 教:「何を見ているのか」指方周平牧師(2016年3月)

聖 書:列王記下6:8~17

 

紀元前9世紀中頃、地理的に多くの外敵に囲まれていた北イスラエル王国(以下イスラエル)の歩みは、国を守る外交工作や防衛戦争の繰り返しでした。イスラエルが隣国アラムと戦争していた時、預言者エリシャは神さまに示されたアドバイスをイスラエルの王に何度も伝え、これによってイスラエルは勝ち続けてきました。一方どうしてもイスラエルに勝てないアラムの王は、自分たちの中にイスラエルのスパイが潜んでいるのではないかと疑心暗鬼に陥りました。これに対して疑いをかけられたアラムの家臣たちは、イスラエルには全てを見通す預言者エリシャがいることを伝えたのでした。

 

エリシャ1人さえ抑えればイスラエル全体を攻略できるはずだ、と考えたアラムの王は、エリシャが滞在していた町に、夜中のうちに軍隊を差し向けました。翌朝、自分たちが敵軍に包囲されているのを目の当たりにしたエリシャの召し使いは、災いが迫っていることを恐れて「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」と震えながらエリシャに訴えました。しかしエリシャが「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈りますと、敵軍に包囲された状況だけを見ておののいていた召し使いは、天からの大軍が自分たちと一緒にいる奇跡の光景を見たといいます。こうして神さまの助けを得たエリシャは、戦わずして敵軍を降伏させることに成功し、これ以降アラムは2度とイスラエルに侵入しなくなったといいます。

 

この聖書箇所では、同じ窮地に置かれながら全く違うところに立っていたエリシャと召し使いの差が浮き彫りになっています。召し使いは敵軍に包囲された状況だけを見て最悪の結末を予想しましたが、どんな時にも神さまが共におられることを信じていたエリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と天からの助けを仰ぎ見ていました。この聖書箇所から、自分は神さまによって置かれている日常の現場で、何を土台として立ち、何を見ているのかを思わされます。そして、召し使いのように目の前の状況だけを悲観的に分析するのではなく、エリシャのように、どんな時にも神さまが共におられるという見えない事実を見落としてはいないだろうかと省みさせられるのです。

 

現代日本の私たちが文字通り敵軍に包囲されることはなかったとしても、病気や解雇の宣告、災害や事故など予想もしなかった事態に巻き込まれ一夜にして暗闇に陥ることがあります。しかし経験による状況判断や数値予測だけに根拠を求める偶像崇拝を脱ぎ捨てて、謙虚に神さまに心を向ける者だけに見える永遠の領域があるのです。信頼して静かに待っているのならば、十字架の死の絶望からも復活と永遠の命の希望を紡ぎ出される神さまが、いつでも、どこでも私たちと共にいて、どんな困難に陥っても必ず道を切り拓いてくださることを知るでしょう。先行きが見えなくなる時も、絶対にそれで終わりではないのですから、諦めに陥ることなく希望を携え続けて、天からの助けを待ち望みたいのです。
  

                    (2016年2月21日 礼拝説教要旨)

 

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