説 教:「立派な信仰」指方周平牧師(2016年5月)

聖 書:   マタイによる福音書15:21~28

 

 主イエスの御許に、カナン人の女性が近づいて「わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と娘の癒しを願い求めました。細菌やウイルスが発見されていなかった2000年昔、病気は悪霊の仕業と考えられており、名高い主イエスならば苦しむ娘を癒していただけると思ったのでしょう。しかし主イエスは、すがる彼女に何もお答えになられませんでした。それは、元々、主イエスがユダヤ人のためだけの救い主であり、カナン人は主イエスの宣教対象ではなかったからでした。

 

しかし、このカナン人の女性は「自分には資格がないのだ…」と諦めることはしませんでした。彼女は沈黙する主イエスから決して離れず「主よ、どうかお助けください」と執拗に訴え続けたのです。やがて彼女に願い倒された主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とおっしゃられ、彼女の娘は癒されたのでした。この福音書の記述から、神さま御自身であられる主イエスが直々に褒められた「立派な信仰」とは何なのかを思い巡らせます。

 

私たちクリスチャンも、自分の祈りは聞かれていないのではないか、神さまに無視されているのではないかと暗澹たる気持ちに陥る時があります。あのマザーテレサさえ、神さまに見捨てられたような心の闇を何十年と抱えていたことが死後に公表された書簡から明らかにされていました。しかしマザーテレサは神さまの存在を感じようが感じられまいが、自分の感覚や思い込みに関係なく「隣人を自分のように愛しなさい。」との神さまの命令に服従し通したのでした。神さまは、私たちが神さまの存在を都合よく感じること以上に、どんな時にも神さまに信頼すること、従うことを望んでおられます。

 

神さまの沈黙は拒絶ではありません。私たちをつくられ、愛しておられる神さまは、たとえ目には見えなくても、いつでも、どこでも私たちと共におられ、私たちを最善の道にお導きくださっています。だからこそ、私たちの感覚で神さまの存在が感じられない時も、カナン人の女性のように「どうかお助けください」と諦めずに神さまにすがり続けたいのです。その祈りの中にこそ、神さま御自身の力である聖霊によって、揺るがない「立派な信仰」が練り整えられていくのです。

 

「行く手が暗く見える時には、信頼に満ちて歩くことができますように。多くのことがおぼろに見える時は、明らかに見ることのできる小事にますます忠実であることが出来ますように。遠い行く末が雲に隠れている時には、次の一歩だけでもはっきりしていることを喜ぶことが出来ますように。あなたが、どのような方であるかが、わたしの目には見えない時にも、あなたのお命じになることを固く守ることが出来ますように。たとえ洞察力がよろめくことがあっても、服従心に堅く立たせてください。信仰が欠けることがある時には、愛で補うことができますように。」(Jベイリー「朝の祈り 夜の祈り」27日夜)

 

 “Christ And The Canaanite Woman” Jean Germain Drouais