説 教「主の憐れみ」指方周平牧師 (2015年7月)

聖 書 ルカによる福音書7:11~17

 

1968年、エルサレムの近くで新約聖書の時代に造られた4つの墓が発掘調査されました。掘り出された35体の骨の年齢を調べたところ54%は25歳未満の若者、40%が25~59歳の壮年、60歳以上はわずか6%だけだったといいます。2000年昔のパレスチナにおいては18歳になるまでに半数の子どもたちが亡くなっていたとする意見もありますので、新約聖書の時代を生きた人々の平均寿命は、おそらく30歳に満たなかっただろうと考えられています。

 

今朝の新約聖書箇所は、ナインという町に住んでいたある女性のひとり息子が死んで、その亡骸が納められた棺が担ぎ出されようとしている葬列に、主イエスの一行が遭遇したところから始まっています。当時の平均寿命が30歳に満たなかったことを考えるならば、子どもが親に先立つということは決して珍しいことではなかったと思いますが、聖書は、息子を失った女性がやもめであったことを記しています。夫に続けて息子までも失って、天涯孤独の身になってしまったこの女性が悲嘆に暮れた姿を思い巡らせます。どのような慰めの言葉を紡ぎだしたら良いのかも分からない、そのような場面に遭遇された主イエスは、ひとり息子の棺を見送る女性の姿をご覧になられて、憐れに思われ「もう泣かなくともよい」と声をかけられたことが記されています。

 

「憐れに思う」と訳されている箇所をギリシャ語で見てみますと「はらわたを振るわせるほど」という意味の言葉が用いられています。養父ヨセフが早くに亡くなったナザレの大工の家で育たれ、母子の絆の深さを知っておられた主イエスは、ひとり息子を失って泣いている女性の姿を見て、御自身も断腸の思いをもって「もう泣かなくともよい」と声を絞り掛けられたのでした。そして主イエスが棺に近づいて手を触れられると、棺の中に納められていた息子は起き上がり、主イエスは泣いていた女性に、生き返った息子をお返しになったのでした。この様子を見ていた人々は皆恐れを抱き、神を賛美して「神はその民を心にかけてくださった」と言ったといいます。

 

この奇跡が彼女にとってこれ以上ない喜びであったことは疑いありませんが、私は、息子を失ってしまった女性の断腸の悲しみに、主イエスがご自身も腸を痛めながら寄り添われたことに、ひとり息子が生き返ったのと同じくらいの深い励ましと慰めを覚えます。私たちは、親しい家族や友人を失ってしまった隣人を前にして、主イエスのように生き返らせてあげるようなことはできませんが、主イエスのように隣に寄り添うこと、十字架でそのひとり子を失った断腸の悲しみを知っておられる天の父なる神にとりなしを祈ることはできます。憐れむという漢字が「心の隣」と綴られているように、どれだけ自分の生き方や言葉に自信がなかったとしても、他の誰でもない、この私でなければ、寄り添い、とりなしを祈ることのできない傷ついた隣人が、主なる神によって与えられています。私たちは天国への旅路で出会うそれらの隣人に、どのように向き合っていくのでしょうか。

                     (2015年7月5日礼拝説教要旨)

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