説 教 「主よ ともに宿りませ」指方周平牧師(2015年4月)

旧 約 列王記下7:1~16

新 約 ルカによる福音書24:13~35

 

 今朝の聖書は、主イエスの2人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かう夕方の道が舞台です。彼らは3日前に主イエスを十字架の死に追いやったユダヤの指導者たちが、安息日の明けたこの日に、弟子の自分たちをも捕えに来るかもしれない恐れと不安からエマオに逃げていく途中だったのかもしれません。そんな途上で彼らに話しかける人が現れ、3人一緒に歩き始めたといいます。2人の弟子はこの人に、主イエスを巡ってエルサレムで起こった目まぐるしい一週間の出来事を説明し「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と自分たちの失意を語りましたが、この日の午前中に仲間たちから伝えられた主イエス復活の知らせについては「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」(列王記下7:2)と言わんばかりに信じられない様子でした。

 

弟子たちから話を聞いたこの人は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言って聖書全体から救い主について書かれていることを2人に解説し始めたといいます。エルサレムからエマオまで約11キロ、大人の足で約2時間ほどの距離を3人が熱く語らいながら歩いた様子を思います。やがて日暮れてエマオについた時、なおも先に行こうとするその人を2人の弟子は無理に引き止めたので、その人は共に泊まるため家に入り、食事の席でパンを裂いて2人に渡しました。すると2人の弟子の目は開け、ここまで一緒に歩いてきたのが復活された主イエス御自身だと分かったといいます。

 

主イエスが共に歩いてくださりながら、それが全く分からなかった2人の弟子。私たちも2人の弟子のように恐れや失望「そんなことはなかろう」という思い込みの中で心が遮られ、主イエスが共におられることが分からなくなる時があります。また、主イエスから直々に聖書に裏打ちされた救い主の完璧な証言を聞かされたとしても、それを聞く私たちの理解力や感受性には限界があることも思います。ただ、そんな道端や石地、茨(ルカ8:11~15)のように物分かりが悪く、心が鈍い私たちであっても、ともに歩いた隣人をエマオの宿に引き止めた弟子たちのように、蒔かれた種を受け入れる良い土地のような素直な姿勢で、あらゆる隣人の姿に変えて私たちを訪ねて来られる主イエスをお迎えするならば、その交わりの中でこそ、復活の主イエスに目が開かれていくのです。

 

私たちの教会では新年度年間聖句に「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」との主イエスの御言葉を掲げました。主イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と宣言してくださいました。私たちが主イエスを証していくために大切なのは、気の利いた言葉や緻密に練られた伝道計画以前に、まずキリストの体である教会に連なっている私たちが互いに愛し合っている事実です。たとえ私たちの言葉は拙く愛の業は小さくても、私たちが互いに愛し合いながら主イエスの御跡を共に辿っているならば、そこに神の御手が働いて、エマオへの道、エマオの宿での交わりのように、人々の目を、私たちの交わりのただ中におられる復活の主イエスに開いていくのでしょう。

(2015年4月12日礼拝説教要旨)

 

 


 

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   日本キリスト教団

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