説 教

説  教 「受難と復活の予告」 指方周平牧師   (2014・3)
新約聖書 マルコによる福音書8:27~33

 

今朝の新約聖書箇所は、主イエスと弟子たちの一行が、ベトサイダからフィリポ・カイサリア地方の村々にお出かけになった途上が舞台となっております。この途上、主イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と質問をされました。この箇所には、当時の人々が主イエスをバプテスマのヨハネやエリヤ、預言者と評していたことが記されておりますが、借り物の言葉でなく「あなたは、メシアです」と答えたのはペトロでした。主イエスを貫いている本質は「メシア=救い主」です。ペトロはこれを見抜いて明確に信仰を告白したようでした。しかし今朝の聖書舞台はこれで終わりません。実はこの時点のペトロにとって、主イエスは「メシア」であっても「何からの救い主」なのかが分かっていなかったのです。

 

さて主イエスは、ご自身が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちにはっきりとお話しになられました。すると「あなたは、メシアです」と答えたばかりのペトロが主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたというのです。マタイによる福音書の並行記事には「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:22)と記されております。注解書を紐解いてみますと、この時点のペトロにとって主イエスは、ローマからの独立を勝ち取る革命家や、古い因習からの解放者に過ぎなかったことが記されております。そんなペトロにとって、自分が見込んでいる存在が、これから対決する相手に殺されるなど、とんでもないことでした。そんな思い違いをしているペトロに向かって主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と弟子たちを見ながら叱って言われたといいます。

 

的外れなペトロの言動と自分自身を照らし合わせながら厳粛に思い巡らせるのは、イエスを主と告白する自分の信仰は、自分の願望や主義主張を第一に据えようとする「主イエスの名を借りた偶像礼拝」に陥ってはいないかという反省です。文字通り木や金属で形作られた偶像を拝むのが偶像礼拝ではなく、神ならぬものを第一とするのが偶像礼拝の本質であることを思う時「神のことを思わず、人間のことを思った」ペトロのように「あなたは、メシアです」と告白しているといいながら、いつの間にか、主イエスが他の何かにすり替えられてしまうサタンの誘惑や罠とは誰しも決して無縁ではないことを思うのです。

 

主イエスがこの世に来てくださったのは、単なる制度改革のためではなく、私たちの身代りとなって罪を贖うため、そして3日後に復活して私たちに永遠の命を得させるためでした。これは、いくら立派であっても人間に過ぎないエリヤやヨハネ、そして預言者たちには出来ない神の救いの業でした。「あなたがたはわたしを何者だというのか」これは2000年前の直弟子たちだけになされた質問ではなく、今を生きる私たち1人1人にも問われている主イエスからの質問です。私たちは、この質問にきちんと答える用意ができているでしょうか。この受難節の日々、主イエスの十字架の受難と復活を、顔の見えない他人事にしてしまうことなく、主イエスがこの私のために苦しまれたことを想起し「主イエスをどなたと告白するのか」心と言葉を整えながら、来たる復活節イースターに向けて、心を低くして主イエスの御跡を辿って参りたいと思うのです。


            (2014年3月23日礼拝説教要旨)

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