説 教 「神の国はあなたがたの間にある」指方周平牧師(2015年10月)

聖 書 ルカによる福音書17:20~21

 

主なる神様からの手紙である聖書には「神の国」という言葉が68節「天の国」という言葉が32節、計100節に登場します。神の国と聞いて死後に迎え入れられる永遠の理想郷を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。神の国はキリスト教信仰の根幹にして目的ですから「本当にあるのか」という問いは古今東西を超えて人々の大きな関心であり続けてきました。「神の国」とは一体どこにあるのでしょうか。

 

今日の聖書舞台において、聖書を熱心に研究していたファリサイ派の人々は、神の国が「本当にあるのか」「どこにあるのか」ではなく「いつ来るのか」と主イエスに質問しました。この時代、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にあり、主なる神に選び出された民としての誇りを千数百年にわたって受け継いできたユダヤ人にとって、それは正されなければなければならない異常事態でした。ファリサイ派の人々が思い描いていた神の国とは神の掟(旧約聖書の律法)によって世界が支配される状態であり、異邦人の支配に屈辱を感じていた彼らにとって「いつ、そのような状態になるのか」は切実な問題でした。この質問に対して主イエスは神の国が政治制度や革命によっては確立しないことをおっしゃられ「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と、今すでに存在するものとして宣言されました。

 

主なる神の創造の目的にかなった本来の世界が、一体どのような状態なのかを思います。今年度、私たちの教会では、主イエスが十字架につけられる前夜に、弟子たちの足を洗われた後で命じられた「互いに愛し合いなさい」という命令を年間聖句に掲げています。イエスを主と仰ぐキリスト教会は、足のように繰り返し汚れる部分を主イエスに洗われた者同士が互いに洗い合い、共に生きていくために集められた群れです。そして神の国は「ここにある」「あそこにある」というものではなく、私たちが自分の思い通りにはならない他者と、それでも一緒に生きていこうとする関係の中にこそ、主なる神の創造の御心にかなった神の国がすでに存在していることに心の目を開かれます。

 

かつて初代教会の交わりを見ていた人々は、説教に心打たれたからでも、宗教としての教えに納得したからでもなく、教会の人々が何もかも分かち合い、喜びと真心をもって共に生きている現実に、何よりも雄弁な神の国の証拠を見て日々仲間に加わっていきました(使徒言行録2:44~47)。神の国から地上に来られた主イエスは、神の国が律法によって確立するものではなく、死後にようやくたどり着く場所でもなく、私たちが互いに愛し合う関係の中にすでに存在していることを解き明かしてくださいました。私たちの信仰は死んでから神の国に入ることだけを目的とする信仰ではなく、欠点ある者同士が赦し合い、自分自身を愛するように互いに愛し合う関係の中で、今ある現実をも活き活きと生きていくための信仰です。主イエスによって救われてなお自分を第一とする本能から自由になれない私たちですが、それでも、主イエスが私たちの最も汚れた部分を率先して洗ってくださったように、主イエスの御跡を辿る私たちも何度でも赦し合い、互いに愛し合う中で神の国に生き、いつでもどこでも神の国の訪れを証してまいりたいのです。


(2015年10月11日礼拝説教要旨)

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