説教 「近いのに遠い人」指方周平牧師 (2015年8月)

聖書 ルカによる福音書10:25~37

 

今日の聖書舞台では、律法の専門家が主イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、人間が神に対してできる最高の質問をしています。これに対して主イエスは「律法(神の掟)には何と書いてあるか」と問い返され、律法の専門家はレビ記と申命記を引いて「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。これを聞かれた主イエスは「正しい答えだ」とおっしゃって「命を得るためにそれを実行しなさい」と勧められました。しかし、この律法の専門家が「私の隣人とはだれですか」と質問を重ねたので、主イエスは隣人がだれであるかを具体的に教えるために次のたとえ話を始められました。

 

旅の途上で強盗に遭い半殺しにされたユダヤ人が放置された路上に、同じユダヤ人の祭司が通りかかりました。半殺しにされた人は、これで助けられると思ったかもしれませんが、祭司は倒れている同朋を見ると、何と道の反対側を通り過ぎ、しばらくしてユダヤのエリートであるレビ人が通りかかりましたが彼も避けて通り過ぎてしまったといいます。やがて3人目の人が通りかかかりましたが、それはユダヤ人と700年以上に亘って憎しみ合ってきたサマリア人でした。しかし、この人は、路上に放置されている瀕死の人を見ると憐れに思い、ユダヤ人かサマリア人かと分け隔てすることなく、その人に消毒と包帯をし、自分の乗っていたロバに乗せて宿屋まで運んで、夜通し介抱したのでした。

 

主イエスは「私の隣人とはだれですか」と質問を重ねた律法の専門家に向かって「あなたは祭司とレビ人とサマリア人の3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われ、律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えました。私たちが同じ価値観の仲間を助けることは難しくないように思えますが、現実には倒れている同胞を無視した祭司やレビ人のように、自分の気分や都合を優先し、関わらなくて良い理由さえ積極的に探す自分を思います。ましてや長年反目してきた敵を、自分の限りある時間や財産を犠牲にしてまで助けることは不可能なことに思えます。しかし主イエスが教えてくださった隣人とは、自分の都合や好みで選べる特別な相手ではなく、文字通り自分の隣にいる人であり、隣人愛とは、自分の命を造られた主なる神によって共に生かされている隣人を自分自身のように、いつでも、どこでも、分け隔てなく愛することであると教えられます。

 

「行って、あなたも同じようにしなさい」と私たちに命じられた主イエスは、身代わりになって死んだところで信じないかもしれない私たちのために十字架にかかることで、損得や見返りに縛られていない圧倒的な神の愛を私たちに教えてくださいました。愛を教え、永遠の命に至る唯一の橋を渡してくださった主イエスは、私たちが顔の見えない理想の誰かではなく、欠点もわだかまりもある現実の隣人を愛することを願っておられます。「近いのに遠い人」という説教題をご覧になって心に思い浮かんだ人がいるならば、その人こそ、あなたが分け隔てなく愛することを訓練され、永遠の命を得るために主なる神が与えてくださった隣人です。あなたが祈りと勇気を携えて、その隣人に声をかけ、手を差し伸べるための一歩を踏み出すのならば、必ずやその先に和解の道が切り拓かれ、神の御心が行われる神の国が垣間見えてくるのです。

                     (2015年8月2日礼拝説教要旨)

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