説  教「分かち合う時にこそ」指方周平牧師(2016年2月)

旧約聖書 申命記8:1~6

新約聖書 ヨハネによる福音書6:1~15

 

聖書の舞台であるイスラエルにある2つの湖、死海とガリラヤ湖はヨルダン川によって南北につながりヨルダン川から注がれる同じ水でできた兄弟といえる湖ですが、その様相は全く違います。まず地球上で最も低い場所(海抜‐418m)にある死海は、ヨルダン川から注がれた水を溜め込むばかりで他に分けることがなく、天然のるつぼの中で蒸発してミネラル分だけが濃縮された苦い水の中に生命の気配はありません。一方のガリラヤ湖はヨルダン川から注がれる新鮮な水を他にも分け与えて周囲を潤し、ほとりには緑が生い茂り、湖の中で活き活きと泳ぐ魚を求めて、たくさんの漁師が生活していたといいます。今朝の新約聖書箇所は、そのようなガリラヤ湖畔が舞台です。

 

ガリラヤ湖畔におられたイエスさまのところに、イエスさまの教えを聞こう、助けていただこうとして5000人もの大群衆が続々と集まってきました。その様子をご覧になっておられたイエスさまは、ふと「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばいいだろうか」と弟子たちに質問をされました。フィリポという弟子は、5000人に食事を配るためには日当200日分に相当するお金が必要という見積もりを立てましたが、仮にそれだけのお金があっても5000人分もの食事をすぐに用意できる店はありません。これは常識的には実現不可能な質問でした。

 

そこにアンデレという弟子が大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年をイエスさまのそばに連れてきたのですが、アンデレはわずかばかりの食べ物と目の前の大勢の群衆を見比べながら「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と分析しております。しかし、ここでイエスさまが少年の差し出したパンと魚を取って感謝の祈りを唱えて人々に分け与え始められると信じられないことが起こりました。なんと5000人もいた群衆は分け与えられたパンと魚を欲しいだけ食べて満腹し、食べきれなかったパン屑を集めてみると12もの籠に一杯になったというのです。神さまは、自分が持っていたわずかばかりの食べ物を差し出した少年のイエスさまへの信頼を器として、そこに人知では計り知れない奇跡を注いで「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことをイエスさまのそばに集まって来たすべての人々に体験させられたのでした。

 

私たちは、何かをなそうとする時に、恥をかくことや損をすることを憶病に予測してしまって、人前に出しても見劣りしない能力、そつのない言葉、減っても惜しくないものだけを差し出そうとはしていないでしょうか。私たちは5000人を満足させるような食料やお金、誰もが納得するような能力や理路整然と練られた言葉は持っていないかもしれませんが、それでも、あの少年のようにパン5つや魚2匹くらいの賜物は必ず持っているのです。能力にしても、お金にしても、時間にしても、それを自分のためだけに溜め込むのではなく、わずかばかりであったとしても隣人と分かち合おうと差し出す時、そこに私たちの憶病で小さな予測を超える神さまの無限の力が注がれます。その時にこそ、私たちは小さな自己完結の中ではなく、神さまの御手の中で、喜びも悲しみも隣人と分かち合える神の国に生かされていることを体験するのです。

 

(2016年2月7日 礼拝説教要旨)

Tintoretto:The Miracle of the Loaves and Fishes

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