聖書: ヨハネによる福音書8:3~11

説教:「わたしもあなたを罪に定めない」指方周平牧師(2016年8月)

 

今日の聖書舞台は、ユダヤ人の指導者たちが、早朝に姦通の現場で捕らえられた女性を主イエスの御前に引き出して来た場面です。主イエスの存在を快く思わないユダヤ人の指導者たちは、主イエスを訴える口実を得るために「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と下心のある質問しました。もし主イエスが「赦してあげなさい」とおっしゃられれば、それは律法を破ることであって主イエスが訴えられる口実になりかねません。しかし主イエスが「律法の定めに従いなさい」とおっしゃられるならば、この女性の命は失われてしまうことになります。

 

主イエスは二者択一で即答されることなく、沈黙して指で地面に何かを書いておられたといいますが、ユダヤ人の指導者たちがしつこく問い続ける中、やがて立ち上がられて「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とだけおっしゃって再びかがみこまれました。この言葉を聞いた人々は、年長者から始まって1人また1人と立ち去ってしまい、最後には、主イエスと女性だけが残されたといいます。主イエスは身を起こされると「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」とおっしゃられました。女性が「主よ、だれも」と答えると「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と宣言されたのでした。

 

実は初期の写本にこのエピソードはなく、後代に付加された箇所とされていますが、一度は完成したヨハネによる福音書に、忘れられてはならないメッセージとして追記されたこの箇所が持っている重みを思い巡らせます。姦通は夫婦関係を破綻させる裏切り行為であり、律法に則って「こういう女は石で打ち殺せ」とユダヤ人の指導者たちが言ったことは、当時のユダヤ社会の秩序を維持するためにも、ユダヤ人が律法を守ることによって神の民であり続けるためにも筋は通った主張でした。ただ、姦通を犯した女性の過ち、そして律法さえも、主イエスを訴える口実を得るための建前として利用したユダヤ人の指導者たちの言動には、この女性の命の尊厳に対する畏れも、神の掟である律法に対する慎みもありません。筋が通っているということ、正しいということが、必ずしも愛や真実の上に形作られているわけではない人間の限界を、このユダヤ人指導者たちの姿勢から見せつけられる思いがします。

 

人は自らの不真実を暴かれ、裁かれ、罰を受けることによってではなく、主イエスの愛と赦しの中に受け容れられて初めて真実ではない自分自身の罪を告白できるのです。文字通りの姦通でなかったとしても、これが知られたらどうしようという罪の負債を、人間ならば誰しも抱えておりましょうが、それを知り尽くした上で、主イエスは赦してくださいます。そして主イエスの救い・キリスト教が伝えてきた福音はマイナスをゼロに戻すだけでは終わりません。赦されたところに始まる新しい生き方があり「行きなさい」と送り出されていく新しい世界があるのです。

(2016年8月14日礼拝説教要旨)

「Christ and the Woman Taken in Adultery」(部分)

レンブラント画 1644年 大英博物館蔵