新約: ヨハネによる福音書11:(1~)28~44

旧約: ヨブ記42:1~6

招詞: フィリピの信徒への手紙1:21

説教:「キリストにある命」指方周平牧師(2016年10月)

 

主イエスのもとに、危篤に陥った兄弟ラザロを助けに来て欲しいとの知らせがベタニア村のマルタとマリアからもたらされましたが、主イエスが彼女たちの所に到着されたのはラザロが死んで4日も後のことでした。すでにラザロを看取って遺体も墓に納めたマルタとマリアは、タイミングを外して到着された主イエスに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と不満と後悔を訴えました。どうして主イエスは願い求めた時に、すぐ助けに来てくださらなかったのか。たとえ信仰を持っていても、尽きぬ悲しみで心が窒息し、このような思いに飲み込まれてしまうことは私たちにもありうることです。

 

しかし、そんな思いに先んじて、福音書は「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11:5)と証しています。この記述より、主イエスが私たちを愛しておられる事実は、主イエスに対する私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合には一切左右されない、関係の土台であることを知るのです。主イエスは悲しむマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と宣言され「このことを信じるか。」と問い直されました。これに対して失望の縁に立っていたマルタは、主イエスを正しく理解し、御言葉に十分納得できたからではなく、ただ信仰によって「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と主イエスに飛び込んだのでした。

 

かつて不条理な苦難に陥ったヨブは、正しく生きてきた自分が何故こんな悲惨な目に遭わなければならないのかと3人の友人たちと言い争いながら苦難の理由を主なる神に求め続けました。ようやく登場された主なる神は、ヨブが納得するようには逐一答えられず、逆にご自身が天地を創造された時にヨブはどこにいたのかと問い詰められました。結局ヨブは自分を襲った苦難の理由は分からず終いでしたが、天地万物を創造された主なる神が、いつでも、どこでも自分と共にいてくださるという真理だけは知りました。パウロは獄中から「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と宣言しましたが、私たちは主イエスが共にいてくださるから、もはや「生か死か」の二者択一ではなく「生も死も」一元の「キリストにある命」に結び付けられている真理を思い巡らせるのです。

 

マルタの応答を受け入れられた主イエスが、ラザロの墓の前に赴かれ、天を仰いで祈られてから「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、死んでいたラザロは生き返って墓の中から出て来たと福音書は証しています。意味が見出せない苦難や必死の祈りへの沈黙は、決して主なる神の拒否や罰ではありません。遅れて到着された主イエスに、マルタが不満を言いつつ「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と、それでも信仰を表明し直したように、人は自らが信じ告白する言葉によって歩んでいきます。主なる神ご自身であられながら、私たちを愛していることを伝えるために、この世にまでお越しくださった主イエスを信じて飛び込んでいく時、私たちはすでにキリストにある命・永遠の命を得ているのです。

 

 (2016年10月2日礼拝説教要旨)

「ラザロの復活」ジオット・ディ・ボンドーネ(1267~1337年)

イタリア・スクロヴェーニ礼拝堂