説教:「主の御跡をたどる群れ」指方周平牧師(2016年4月)

聖書:ヨハネによる福音書20:19~23

 

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

その日の朝、弟子たちはマグダラのマリアから、主イエスの復活を既に聞いていたはずでした。それなのに彼らは夕方になっても人目を避けて家の戸に鍵をかけたままでした。それは3日前に主イエスを十字架で殺した敵対者たちが、自分たちをも捕まえに来るのではという恐れからでした。また弟子たちは、保身のために主イエスを見捨ててしまった自分の罪に絶望し、自らの殻に閉じこもっていました。


すると、そんな閉塞状況の真ん中に主イエスが現れて、弟子たちに手と脇腹の傷をお見せになりながら「あなたがたに平和があるように」とおっしゃられたのでした。弟子たちが悔い改めて必死に祈り続けたから主イエスを見出せたのではありません。弟子たちの自己評価に関係なく、主イエスの方から弟子たちに現れてくださったのです。そして弟子たちは、復活を疑うのでも、土壇場で逃げた言い訳をするのでもなく単純に「主を見て喜んだ」といいます。

 

主イエスは、喜ぶ弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と重ねておっしゃられ「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と宣言されました。こうして神の愛を人々に宣べ伝えていく使命を与えられる弟子たちですが、彼らはこの後、疑いや不安、誘惑や恐れと全く無縁の聖人になったわけではありません。主イエスにありのままを受け容れられ、罪を赦す権能と、神様の力である聖霊を授けられて宣教に派遣されてなお、弟子たちは罪の性質との内なる戦い抱えたままでした。しかし、そんな弟子たちの定まらない状態に左右されることなく「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださった主イエス御自身が、いつでも、どこでも弟子たちと共にいてくださったのです。


教会は、信仰だけでなく疑いも、大胆だけでなく臆病も、一致だけでなく擦れ違いも、様々な矛盾を抱え込んでいる私たちに、それでも「平和があるように」とおっしゃってくださる主イエスが一緒におられることを共に喜ぶ共同体です。私たちの執念で主イエスにしがみついているのではなく、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合に関係なく、私たちを愛してくださる主イエスは、いつも私たちの只中にいてくださるのです。そして今日の弟子である私たちも、ありのままを受け入れられてお終いではなく、そこから聖霊に後押しされて、不十分であっても悲しみや重荷を分かちあい、不完全であっても互に愛し合うことで人々に神さまの愛を証ししていくためにも、主イエスによってキリストの体である教会に結び付けられています。教会創立30周年の節目に、主イエスが私たちと共におられることを改めて感謝し、互に愛し合う事実によって主イエスを証しする使命を浮き彫りにして、これからも神の国を待ち望みつつ「主の御跡をたどる群れ」として歩んでまいりましょう。

 

                     (2016年4月3日 創立30周年記念礼拝説教要旨)