聖 書: マタイによる福音書1:18~23

説 教:「信仰を絆とした家族」指方周平牧師(2016年12月)

 

新共同訳聖書において「イエス・キリストの誕生」と表題がつけられている聖書箇所は、主イエス誕生に際した養父ヨセフの物語でもあります。婚約者マリアから妊娠を告げられたヨセフが抱いた思いは「やった!」という喜びではなく「どうして!?」という戸惑いでした。なぜならヨセフが愛してやまないマリアが宿した子どもは明らかに自分の子どもではなかったからです。マリアへの疑いやお腹の子の父親に対する怒りで、眠られぬ夜を重ねたであろうヨセフは、やがてマリアとお腹の中の命を案じるがゆえに、ひそかに身を引こうと決心をしました。

 

すると、そんなヨセフの夢の中に天からのお告げがあり、マリアが神の力によって子を宿したこと、その胎の子こそ700年昔の預言者イザヤ以来、到来が約束されてきた救い主であると示されたのでした。この時ヨセフは「そうはおっしゃられても、私は納得できません」と訴えることもできたでしょうが、ヨセフは主なる神を信じて自分の気持ちを全て心に納めたのでした。マリアも身に覚えのない妊娠によってどれほどの不安に陥ったことでしょう。しかしマリアもヨセフと同様に、自らが置かれた状況に押しつぶされるだけではなく「お言葉どおり、この身に成りますように」と、自分を造り生かす主なる神に自らを委ねたのでした。

 

主なる神は、ヨセフとマリアの困惑や憂鬱さえも、ご自身の御心を成し遂げる器として用い、そこに待ち望まれてきた約束の救い主を送ってくださいました。こうして、どんな状況にも主なる神の御心は成し遂げられるという信仰を絆としたヨセフとマリアの家庭で主イエスは生まれ育ち、救いの成就の準備は整えていかれたのです。受け入れ難い状況を、気の済むまで原因究明しようと拘るならば、それは覚悟の定まらない自分自身との終わりない戦いです。しかし、どんなに先行き見えぬ困難であっても、天地万物を造られた主なる神のお許しがなければ起りえないことと信じて担うならば、降ろせない重荷の中にさえ隠されている宝物に必ずや心が開かれることでしょう。

 

私たちが頑張ったから主なる神の御許にたどり着けたのではなく、力が足らずにたどり着けなかった私たちを罪と死から救うために、主なる神ご自身から私たちのところにお越しくださった恵みを起念するクリスマス。救い主は、その名をインマヌエル(神は我々と共におられる)ともいいます。そして、血縁ではなく信仰を絆とした家族・教会の真ん中には、いつも救い主イエスが共におられます。2000年昔、ヨセフとマリアの整わない状況を選んでお生まれくださった主イエスは、今も不完全な私たちのただ中に宿って、紆余曲折に満ちた私たちの歩みを、主なる神の御心にかなった最善の道へと導いてくださっているのです。

                    (2016年12月18日礼拝説教要旨)

聖家族像とヨセフ像(ナザレ・聖ヨセフ教会にて。2016年11月12日撮影)