聖 書: マタイによる福音書4:1~11

説 教:「悔い改めと感謝の両輪で」指方周平牧師(2017年3月)

 

主イエスが伝道の開始に先立って赴かれた荒れ野とは、聖書において人が主なる神と出会う舞台でもありました。そのような場所で40日間を断食して過ごされた主イエスを惑わすために悪魔がやってきました。悪魔ごときに神の御子イエスを誘惑できるのかと思いますが、人間を救うために天から来られた主イエスは、心は神のまま体だけが人間になられたわけではありませんでした。主イエスが、生きる限りあらゆる欲求と無縁になれない人間の憂いを、空腹をも覚える心身で実際に味わってくださった受肉の神秘を思い起こします。

 

誰にとっても誘惑は、準備が整っていない無防備な状況を狙い澄まし様々な姿で襲ってきます。悪魔は衰弱された主イエスを陥れようと手八丁口八丁、時には聖書まで恣意的に用いて巧妙に唆してきましたが、主イエスは逐一「~と書いてある」と聖書に示されている主なる神の御言葉によって悪魔を退けられました。人格や人生が、選べなかった性格や環境によってではなく、自らの土台として告白していく言葉によって造り上げられる尊厳をここに見出します。主イエスはこの出来事を通して、ご自身の成就される救いが、主なる神の御言葉に由来する真理を示されたのでした。

 

隠されている弱い部分が試される時とは、その人が何を起点とし何を目的として人生を歩んでいるのかが厳然と露わにされる時でもありましょう。しかし、道に迷いやすい私たちが自らの経験や状態を根拠とするのではなく、主イエスに結びつけられている救いの事実を告白して歩むならば、どんな誘惑さえも御言葉によって練られ直す試練、主なる神の御心に適った姿へ磨かれていく試金石となるのです。生きる限り避けては通れない「誘惑か、試練か」の分岐では、私たちに先んじて悪魔を退けられた受肉された神の御言葉・主イエスが共にいてくださいます。人間を創造された主なる神の御言葉には力があるのです。

 

さて、復活はキリスト教信仰の真髄ですが、主イエスは十字架を飛び越していきなり復活されたのではありません。私たちは主イエスの永遠の命だけに結び付けられているのではなく、この私の罪の身代わりになってくださった主イエスのご受難と死にも結び付けられています。受難節は主イエスの御跡をたどる私たちの信仰が片輪走行に陥らないように糺され回復されていく40日間でもありましょう。悔い改めと感謝の両輪で地道に、復活節につながる受難節の祈りを深めてまいりたいのです。

 

(2017年3月5日 復活前第6主日・受難節第1主日礼拝説教要旨)