聖 書:   ヨハネによる福音書10:31~42

説 教:「愛の業に神を知る」  指方周平牧師(2016年9月)

 

 紀元前166年、セレウコス朝シリアによって占領されていたユダヤの国では、エルサレム神殿が偶像を祭る場所に貶められておりました。そんな中、ユダ・マカバイという人物は武装蜂起によって神殿を奪回すると、偶像を一掃して神さまを礼拝する場所へと回復させました。この歴史を記念する神殿奉献記念祭の最中、あるユダヤ人の一団が主イエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシア(救い主)なら、はっきりそう言いなさい」と迫ってきました。ローマ帝国によって支配されていたこの時代、ユダヤでは巷で評判のイエスこそ待ち望まれてきた神さまからのメシアではないかという期待が高まっていたからです。

 

ただ、ユダヤの人々が思い描いたメシア像は、あまりにも主イエスとはかけ離れていました。なぜなら主イエスが実際になされた御業は、英雄ユダ・マカバイがなしたような武力闘争ではなく、小さくされた1人1人に寄り添い、神の掟・律法の「神と隣人を愛する」という根本精神を率直に実行される働きだったからです。人々は自分たちの抱く勇ましいイメージと、目の前の静かな現実の差に躓きました。その戸惑いに、創造主である神さまにさえ、絶対化した自分の理想や願望を押し付けようとする人間の自己中心で的外れた有様(罪)を覚えます。

 

主イエスは、メシアとしての証拠を求める人々に「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」とおっしゃられました。マザーテレサは、インドのスラム街で孤独に死にゆく1人1人のただ中に、誰をも分け隔てなく愛しておられる主イエスを見出した人でした。そして主イエスに仕えるように貧しい1人1人のお世話をしました。たとえ言葉は通じず宗教が違っても、その無駄や手間を惜しまなかった業の中に真理を見出し、神さまの存在を信じた人々がおこされたのは厳然たる事実です。

 

かつて初代教会の交わりを目の当たりにした人々は、教会の人々が互いに助け合って生きている中に、神さまが共におられる事実を知って仲間に加えられていったといいます。大切なのは、自分の納得がいくまで神さまの存在を確認すること以上に「互いに愛し合いなさい」とおっしゃられた神さま(主イエス)の使命に従うことでありましょう。全ての人は神さまによって造られた存在です。たとえ神さまの姿を目で見ることはできなくても、無条件の愛の業に触れる時、人は必ず神さまの存在を知ることができるのです。

 

(2016年9月18日礼拝説教要旨)