説 教:「永遠の命に至る食べ物」指方周平牧師(2016年7月)

聖 書: ヨハネによる福音書6:22~29

 

経営していたクリーニング店が潰れた後、生活のためにデイトレードの世界へ飛び込んだ人の記事を目にしたことがあります。必死にかき集めた資金を株に変え、パソコンの前に座り続けて売買を繰り返す中で、次第にお金の流れを見極めるセンスを掴み始めたこの人は、やがて雪だるま式に資産を増やし、遂には、かつての年収の何百年分にも相当する莫大なお金を、指先1本で運用するまでになりました。しかし、この人は、わずかな隙に市場の流れや最新情報を見失って、増やした資産を減らすこと、失うことが怖くなって、寝ても覚めてもパソコンの前から離れられなくなったといいます。記事の最後で、この人が「お金を動かすだけの実体ない生活よりも、人と関わり、汗を流して働いていた方が、ずっと充実していた」と語っていたことが印象的でした。

 

2000年昔のガリラヤ湖畔で、主イエスによって分け与えられた奇跡のパンと魚を満腹するまで味わった人々は、見失った主イエスを探してカファルナウムの町に追いかけてきました。しかし主イエスは、これらの人々が、ご自身を心底求めてやって来たのではなく、衣食住に代表される生活の欲求を満たす便利な存在にしか見ていないことを見抜いておられました。そんな人々に向かって、主イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とおっしゃられました。この「永遠の命に至る食べ物」とは、一体何のことでしょうか。

 

神さまによって造られた人間は、1回の人生では使いきれない程の資産を獲得したとしても、絶対に病気にならない健康な体を得たとしても、そんなものでは満たされない、飢え渇いた部分を心の奥深くに持っています。その飢え渇いた部分を何とか満たそうとして、人間は、いろんな代替物を試していますが、そこを満たせるのは、人間を造った神さまご自身であられる主イエスをおいて他にありません。人間の心にある根源的な飢え渇きは、衣食住の充足ではなく「互いに愛し合いなさい」と命令された主イエスに従うこと、そして自分を愛するように他者を愛することによってしか満たすことはできません。人間は、自分のためだけに自分の人生を浪費するのではなく、財産も時間も自分の人生そのものを隣人に分け与えていく時にこそ、途絶えても無くならない永遠の命の中に生きることができるのです。

 

「永遠の命に至る食べ物」である主イエスの御言葉には、消費期限も賞味期限もありません。主イエスは「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」ともおっしゃってくださいました。天に国籍を持つ私たちは、寄留地に過ぎない地上での生涯をより良く維持するためではなく、死で終わりではない永遠の命を活き活きと生きるために生かされています。だからこそ、喜びも重荷も1人で抱え込むのではなく、生まれてきた喜び、愛されている喜びを分かち合いながら、永遠の命に至る食べ物によって生かされている者として「互いに愛し合いなさい」との命令に従いつつ、天国への旅路を歩んでまいりたいのです。

                    (2016年7月17日礼拝説教要旨)