招 詞: コリントの信徒への手紙Ⅱ12:10

旧 約: 列王記下5:1~14

新 約: マタイによる福音書15:21~31

説 教:「蛇のように賢く、鳩のように素直に」指方周平牧師(2017年2月)

 アラム王国の将軍ナアマンは重い皮膚病を患っていました。立身出世を果たした人物ならば、自分の力が通用しない状況はさぞ歯痒かったかもしれません。ある時、隣国イスラエルに住む預言者エリシャの評判を聞いたナアマンは病を癒されたい一心で会いに行ったのですが、預言者は会おうとせず、使いの者に、そこの川で7度体を洗いなさいと伝言させただけでした。預言者の無礼な対応と拍子抜けする伝言内容にナアマンは憤慨したのでしたが、遠路従ってきた家来たちにいさめられて、預言者の指示にとりあえず聴き従ってみた時、何を試しても治らなかったナアマンの体は元に戻ったといいます。


カナン人の女性は苦しむ自分の娘を助けてほしいと主イエスに願いましたが、主イエスは彼女を無視されました。それでも彼女が「主よ、どうかお助けください」と懸命に叫びながらついてくるので、やっと口を開かれたかと思うと、あなたは神さまに選ばれた人ではないから助けることはできないとおっしゃられるのです。しかし彼女は主イエスにすがって離れません。やがて、その諦めない姿勢に感心された主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とおっしゃられ、そのとき彼女の娘はいやされたといいます。

 

一国の将軍にまで上り詰めたナアマンには、試練を乗り越えてきた経験や積み重ねてきた努力こそ役に立つという価値観が根づいていたのかもしれません。そんなナアマンが自らの能力に頼るプライドを手放して、預言者を通して語られた神さまの御言葉に従ってみた時、自分の経験や常識を凌駕する神さまの圧倒的な力を体験しました。カナンの女性は主イエスに拒否され続けても諦めず、扉が開かれるまで叩き続け、彼女も神さまの御業を体験しました。伝道者パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」と証言しておりますが、思い描くように解決しない困難ならば、それらは私たちの力で中身を埋めたり、諦めたりしなければならない欠点などではなく、実は神さまの偉大なご計画が現わされるために用意されている器なのでありましょう。

 

かつては迷子だった私たちも、今や神さまの御手に捕えられており、たとえ私たちが神さまとのつながりを手放そうとしても、神さまは私たちを決して手放されません。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。これは私たちの側のあやふやな自覚や身勝手な都合に全く左右されない事実です。ただ、私たちがこの見えない事実を積極的に確認しながら生きて行きたいのならば、カナンの女性のように手応えがないように感じられても神さまに喰い付いて離れない蛇のような賢さと、ナアマンのように納得がいかないままでも聴き従っていく鳩のような素直さが不可欠なのです。

                    (2017年2月19日礼拝説教要旨)

「Naaman washing」ドイツ・マリアウォルド修道院のステンドグラス

©Victoria and Albert Museum