説教:「謙遜な名脇役」指方周平牧師(2016年6月)

聖書: ヨハネによる福音書3:22~36

 

 155回の主イエスの御言葉、200回におよぶ人々の発言が納められているヨハネによる福音書は、主イエスを中心に約50人が登場し、まるで舞台の脚本のように仕立てられています。「脇を固める」とは芝居に由来する言葉で、主役を引き立てる優秀な役者をどれだけ主役の脇に集めることができるかによって舞台全体の仕上がりが決まることを指す言葉です。ヨハネによる福音書には主イエスの周りに様々な脇役が配置されて、神さまの救いの物語全体を彩っています。この中において、洗礼者ヨハネという人物は、主イエスの名脇役としての役割を果たした人物でした。

 

かつてユダヤの国中の人々が「ヨハネこそメシア(救い主)ではないか?」とヨハネを祭り上げて、教えを聞き、洗礼を受けるためにヨハネのもとに殺到していた時に、主イエスはヨハネとは別の場所で弟子たちと洗礼を授けておられましたが、次第に人々の間では洗礼者ヨハネと最近評判のナザレのイエスとでは、どちらの清めが正しいかという比較論争が発生したようです。そんな中、ヨハネの弟子たちは「みんながあの人(主イエス)の方へ行っています。」と唆してヨハネを刺激して、一緒に主イエスを非難しようとしました。しかしヨハネは「わたしはメシアではない」「自分はあの方(主イエス)の前に遣わされた者だ」と毅然と答えたのでした。頼りにされ、おだてられたら、いい気分になって応答したくなるのが人間ですが、自分の役をわきまえ、人の声や評判には流されなかったヨハネの固い姿勢に、真の謙遜を見る思いがいたします。

 

謙遜とは物腰が低い態度のことではなく、他の人と自分を比較して思い上がりや嫉妬に陥るのでもなく、自分に与えられた持ち場に留まり、自分の役を精一杯果たすことです。私たちは自分が主人公と思い込んでいるからこそ、思い通りにならない事態になると困惑し、不満を抱き、人と比べて優越感や劣等感に一喜一憂します。しかし、この生涯は、神さまによって組み立てられている大きな舞台であり、私たちは、主イエスによる神さまの救いの恵みを証しする舞台を豊かに彩るため、主役である主イエスの脇を固める脇役として立てられているのです。そしてヨハネは自分が、婚礼において花婿(主イエス)と花嫁(人々)が出会うための脇役に過ぎない介添人にであったとしても、神さまに与えられたその役割に留まり、誇りと使命を持っていました。

 

主イエスは、そのようなヨハネに「生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と最大限の称賛を与えておられます。どんなに脚光を浴びる役であっても、それは自分で勝ち取った地位ではなく、全知全能の脚本家である神さまによって割り振られた役であり、見落とされるような小さな出番であったとしても、それもまた、この自分でなければ成すことのできない役として神さまに与えられた大切な使命です。主イエスを証する舞台の総監督である神さまによって配置された場と役に喜びを持って留まる中にこそ、主イエスがわたしたちに約束された「永遠の命」が秘められています。生きることは独り芝居ではないのですから、この生涯の舞台の主人公と信じ告白した主イエスの名脇役として、自らに与えられた役に誇りを持って、他の役に立てられている隣人とともに「互いに愛し合いなさい」との主イエスのご命令に真摯に仕えてまいりたいのです。

 

(2016年6月5日礼拝説教要旨)

 Behold, the Lamb of God (Ecce Agnus Dei)  Francis Hoyland

 http://www.francishoyland.co.uk/?cat=1 より転載

 © 2012 Francis Hoyland