聖 書: ヨハネによる福音書20:1~18

説 教:「キリストに結び直されている事実」指方周平牧師(2017年4月)

 

まだ暗い早朝、主イエスの墓に向かったマグダラのマリアが目撃したのは石が取りのけられた墓でした。福音書はマリアから「主が墓から取り去られました」と知らせを聞いたペトロとヨハネが「来て、見て、信じた」とテンポよく記しておりますが、彼らが信じたのは主イエスの復活ではなく、亡骸が亡くなった空の墓だけでした。後にヨハネは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、2人はまだ理解していなかった」と若き日の自分を振り返っています。3年間も直に主イエスの教えを聞き続け、直に主イエスの御業を目撃し続け、十字架の前には主イエスから受難と復活の予告を直に3度も聞いていたにかかわらず、主イエスに愛されていた弟子の理解は、未だその程度でした。

 

ペトロとヨハネは早々に帰ってしまい、墓の外に残されたマリアは悲嘆に暮れていたのですが「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声を掛けられて振り向くと、何と復活された主イエスが立っておられたといいます。しかしマリアは園丁だと思い込んでしまい主イエスが分からなかったのでした。復活を理解できなかったペトロとヨハネ、目の前におられる主イエスに気付かなかったマリア。そんな様子が他人事に思えないのは、私自身、頑なな自らの理解や思い込みに閉じこもる中で、主イエスが分からなくなってしまう自分に覚えがあるからです。

 

受難週にヨハネによる福音書を辿り直しつつ、私の心に迫ってきたのは、主イエスが弟子たちの足を洗われた時に、汚れた足を差し出すのを拒もうとするペトロにおっしゃられた「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」という御言葉と、訣別説教の中で弟子たちにおっしゃられた「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」という御言葉でした。主イエスは弟子たちの理解や都合に先行して御業を示し御言葉を語られたのでしたが、それらが弟子たちを置いていくことはありませんでした。後に、弟子たちの中で目覚めの時を待っていた主イエスの御言葉は、弟子たちが聖霊で満たされた時、十字架と復活の主イエスに結び直された喜びに生きる新しい者へと弟子たちを造りかえていったのです。主イエスと私の関係・信仰生活において大切なのは、たとえすぐには分からず、直ちには従えなくても、主イエスから頂いた御言葉を大切に心に納め続ける謙遜ではないかと思えてなりません。

 

さて、復活された主イエスが、弟子たちに伝えるようマリアに託された御言葉は「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」でした。天の神でありながら人として地上に生まれ、私たちの罪の身代わりになって十字架で死に、葬られて陰府に下って3日目に死人の内から復活された主イエスは、1人手ぶらで天に上られたのではなく、主イエスの罪の赦しと、主イエスの永遠の命とに結び直された私たちを担って天に上られました。これは私たちの追い付かない理解や、整わない生き方には左右されない確定した恵みの事実です。私たちは、十字架と復活のキリストに結び直されている事実に、既に生かされているのです。

                 (2017年4月16日 イースター礼拝説教要旨)

Free Bible images of the resurrection of Jesus and the empty tomb.