招詞:マタイによる福音書3:2

旧約:エゼキエル書18:25~32

新約:使徒言行録17:22~34

説教:「悔い改めのメガネ」指方周平牧師(2017年6月)

 

昨年の初秋、遠方におられるNさんから、思いもかけずガンの宣告を受け、混乱する中で私のことを思い出しましたとメールをいただきました。メールには「こうなって神に救いを求めるのは勝手だと思うのですが、私も救われることはできるでしょうか?」とありました。以来約10か月、真剣な問いに対する私の言葉はアレオパゴスでのパウロのように拙いものでしたが、Nさんは、そんな私をも牧師として用いられる神さまを必死に求め続けられました。先月末にご家族から電話をいただき、容態が急変して入院されたこと、生涯が完成する暁には私に葬儀の司式をしてほしいと希望しておられることを伺い、Nさんが私を通して神さまに救いを求めてこられたならば、神さまは私を通してNさんに救いを宣言されることを思って病床をお訪ねしたのでした。

 

私は「Nさんを創られた神さまは、主イエスを与えるまでにNさんを愛しておられ、Nさんが罪の赦しと永遠の命を渇望しておられることをすでにご存知ですが、心の中だけで神さまを呼び求めるのではなく、イエスは救い主と信仰を告白して洗礼を受け、名実ともに神さまにご自身を委ねませんか。」と提案しましたところ、はっきりした声で「はい」とおっしゃられました。こうしてNさんは信仰を告白され、私は父と子と聖霊の名によって洗礼を執り行ったのでした。額に水を当てた時、かなりの熱があることに気付きましたが、しばらくの沈黙の後、眼を開けてNさんを見ると、宿題をやり遂げたような安堵の表情をしておられました。それから約2週間、肉体は急激に衰えていかれましたが、名実ともに、心身ともに十字架と復活の主イエスに結びされたNさんは神さまの御心にかなった本来の状態を回復して、神さまの御許へと出発されたのでした。

 

聖書における「悔い改め」という言葉には「視点を変える」「思いす」という意味があります。Nさんの闘病生活が、それまで積み重ねてきた平穏な日常が次々ひっくり返っていく怒涛の日々であったことは想像に難くありません。しかしNさんは、この病をも神さまの御心から離れていた自分を見つめすメガネとし、これまで見落としてきた恵みの事実を数えし、日々、新しい心と新しい霊を造り出されていきました。自分を主語に据える生き方を変えられて、実は、救いから遠かったのではなく、すでに恵みの中にいたことを知ったのです。

 

私たちは、自分を第一とする「私が、私が」という傲慢と鈍さに溺れる中で、どれだけ私たちとともにおられる主イエス、私たちの間にある天の国を見落としていることでしょうか。しかし立ち返って仰ぎすならば、肉体のとげさえも心のメガネとなって、自分のあやふやな自覚や身勝手な都合に関係なくいつでもどこでも注がれている神さまの愛、備えられている御心に適った道筋へと私たちを導きすことでしょう。この世は、いつ名前を呼ばれるともわからない天の国の待合室です。だからこそ目を覚まして絶えず祈りつつ、聖書によって神さまの御心と自らの在り方とを照らし合せながら、主イエスが再び来られる日に備えて真っぐに歩んでまいりたいのです。

 

(2017年6月18日礼拝説教要旨)