招詞: マタイによる福音書13:44

旧約:列王記上3:4~15

新約: コリントの信徒への手紙Ⅰ15:35~52

説教:「死で終わりではない希望」指方周平牧師(2017年9月)

 

京都御所には「桜松」と呼ばれている木があります。これはクロマツの幹の空洞にヤマザクラが芽生え育って一本になった木で、春になるとクロマツの木にヤマザクラの花を咲かせていました。そんな稀有な「桜松」ですが、残念ながら21年前に嵐で根元から倒れてしまいました。しかし園丁の方々は倒れた木をすぐには撤去しないで、むき出しになった根に土をかぶせて様子を見守ることにしたのでした。

 

紀元1世紀、まだユダヤ教の分派や異端程度にしか認識されていなかった主イエスの福音を、普遍の真理として伝道し、その書簡によってキリスト教の基礎を整えたパウロは生涯をひたすらに走り抜いた人でした。迫害者だった前半生にはエルサレムから300kmも離れたダマスコにまでキリスト者を捕まえに行こうとし、主イエスに召し出されて伝道者にされた後半生で3度の伝道旅行を成し遂げたパウロは、一貫して常人離れした意志の持ち主でした。しかしパウロは自らの我慢や頑張りによって主イエスを宣べ伝えたのではありません。一体、パウロのとてつもないエネルギーは、何に根差していたのでしょうか。

 

主イエスは「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と、世の終わりに来る神の国をたとえられました。そしてパウロは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠り(「眠り」=「死」のたとえ)につくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と、死者の復活について証言しています。患難や忍耐の尽きなかったパウロの生涯は処刑の最期にいたるまで壮絶でしたが、彼は主イエスに結ばれているキリスト者の命が、地上の体の死で終わらないという希望を啓示(コリントⅡ12:2)によって知っていました。この希望を原動力として、パウロは主なる神さまがお与えになる栄冠を目標として戦いを立派に戦い抜き、走るべき道を走りとおし、信仰を守り抜いたのでした。

 

この夏10年ぶりに、あの「桜松」を訪れた時、外側のクロマツは既に枯死しておりましたが、内側に宿ったヤマザクラは今も生きて、横たわるクロマツの幹から何本もの新しい幹を天に向けて成長させておりました。私は、日陰を作るほどに瑞々しい葉を茂らせているその姿から、十字架と復活の主イエスに結び直されたキリスト者にとって、死で終わりではないという希望を改めて思い起こしました。主イエスによって朽ちない新しい命を与えられた事実は、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合によっては左右されません。クロマツの老木に宿ったヤマザクラのように、たとえわたしたちの「外なる人」は衰えても、永遠の命である主イエスに結び直されたわたしたちの「内なる人」は日々新たにされているのです。

(2017年9月10日礼拝説教要旨)

京都御所「桜松」2017年8月28日撮影