招詞:ヘブライ人への手紙7:24~25

旧約:列王記上18:20~39

新約:マタイによる福音書6:1~15

説教:「祈りの祭壇」指方周平牧師(2017年5月)

 

祭壇上の生贄に火で応答した方こそ真実の神と証明するカルメル山での対決で、主なる神の預言者エリヤは、まず壊れていた祭壇の石を積み直しました。これは主なる神に対するイスラエルの民の崩れた姿勢を整え直す悔い改めの象徴でした。エリヤは、主なる神のこれまでの恵みを数え直し、主なる神はこれからも自分たちを導いてくださるという信頼を積み直したのでした。こうして修復された祭壇の前で献げられたエリヤの祈りは聞き届けられ、祭壇上の生贄は焼き尽くされてエリヤは偶像バアルの預言者たちに勝利し、主なる神と偶像バアルの間で迷っていたイスラエルの民は、主なる神に立ち返ったのでした。

 

バアルの預言者たちの祈りは必死で真剣そのものでしたが、祈りとは気合で自分を押し通す要求ではありません。エリヤは、積み直された主なる神への信頼を祭壇として自分を委ねるように祈りを紡ぎ出し、それに主なる神が応答されたことを思い起こします。信頼を置き去りにしたまま願望だけが先走るならば、それはバアルの預言者のような的外れた注文になりかねません。わたしたちの祈りの祭壇は、壊れたまま放置されてはいないでしょうか。

 

主イエスは「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」とおっしゃられました。そして「だから、こう祈りなさい」と主の祈りを教えてくださいました。わたしたちは、暗唱できるまでに慣れ親しんでいる主の祈りの前提に語られた「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」という主イエスの御言葉を見落としてはなりません。わたしたちはいろいろと思い悩んで祈りますが、わたしたちを造られた主なる神は、わたしたちの必要を、わたしたち以上に、すでに知っておられるのです。

 

かつては壊れたままだった、わたしたちの祈りの祭壇は、今や主イエスによって完璧に修復されています。わたしたちが祈りを献げる祭壇とは、主なる神との執り成しをしてくださった十字架と復活の主イエスご自身なのです。未だに定まらない思いや身勝手な生き方に溺れがちなわたしたちですが、主イエスの御許に立ち返って祈り直すならば、主イエスを与えるまでにわたしたちを愛しておられる主なる神が、すでに御心にかなった最善の方向へとわたしたちをお導きくださっている静かな事実に気付かされていくでしょう。だから、わたしたちは、いつも共にいてくださる主イエスの御名によって、天におけるように地の上にも御心が行われますように、御国が来ますようにと、全てを備えられる主なる神を信頼して祈り続けるのです。

 (2017年5月21日礼拝説教要旨)