招詞:マタイによる福音書19:17

旧約:出エジプト記20:1~17

新約:エフェソの信徒への手紙5:1~5

説教:「神に倣う者」指方周平牧師(2017年10月)

 

テレビで物マネ芸を観ておりますと容姿が似ている人、歌やダンスが特徴を捉えていて雰囲気がそっくりな人、時には本人以上に本人っぽい人?も登場します。テレビの画面には、物マネ芸をする人たちがサラリとやってのけているかに映ります。しかしテレビに映らない舞台裏では、自分自身の芸を録画して本家本元と照らし合わせて、コツコツと観察と練習を重ねて、あの見事な物マネ芸を身に付けていったであろう様子を想像するのです。19世紀スイスの詩人アミエルは「人生は習慣の織物である」と記しましたが、主イエスの御跡を日々たどる信仰生活も、それに似ていることを思い巡らせました。

 

人間をご自身にかたどって創造された(創世記1:27)主なる神さまは、人間が本来の状態で生きるために「~をしなさい」「~してはならない」と明記された掟(十戒に代表される律法。出エジプト記20:1~17)を与えてくださいました。ただ、主なる神さまと人間との関係を記す聖書はそれで完結せず、命を得るため(マタイによる福音書19:17)に掟を与えられたにもかかわらず、それを守れず、時には都合よく曲解してしまった人間のズレた状態「罪」を容赦なく浮き彫りにしていくのです。しかし、主なる神さまは見限ることなく、死んだ状態の人間を何とか救おうとして、ついには主イエスを世にお遣わしになられたのでした。こうして人間に見聞きできる姿でこの世にこられた神さま・主イエスは、十字架の死に至るまで掟を実践して、神さまと周囲の人々を分け隔てなく愛する生涯、人間の本来の状態「命」を示してくださったのでした。

 

エフェソの信徒への手紙5:1には「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と記されています。ここで用いられている「倣う」(μιμηταὶ ミメータイ)という言葉には「模倣する」「マネをする」という意味もあり「真似る」が転じて「学ぶ」になったのは有名な話です。つまりパウロは、キリスト者に向けて、しっかり頑張って神さまになれと無理を言っているのではなく、主イエスが与えられるまでに神さまに愛されているあなたたちは、その愛に満足して終わるのではなく、主イエスを真似て生きなさいと勧めています。パウロに先んじて主イエスも「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイによる福音書11:29)とおっしゃられたことを思い起こします。

 

主イエスを救い主と公に信仰を告白して洗礼を受け、名実ともにキリスト者になっても、すぐに主イエスに似た者となるわけではありません。似ている時があれば、まるで似ていない時もありましょうが、主イエスに結ばれているキリスト者は、あやふやな自覚や身勝手な都合に関係なく、すでに新しい命に生かされています。そしてキリスト者の人生の旅路には、主なる神さまの御許に立ち返り、御心に自らを照らし合わせる礼拝という節目が備えられています。わたしたちの罪のために御自分を十字架上で献げてくださった主イエスは、いつでも、どこでも、わたしたちを愛してくださっているのですから、わたしたちも、主イエスに立ち返ることを侮らず、主イエスに倣うことで主イエスの愛を証しつつ、主イエスの御跡を歩んでまいりたいのです。

(2017年10月1日礼拝説教要旨)

キリスト教信仰の名作「キリストに倣いて」トマス・ア・ケンピス著