招 詞:使徒言行録16:9~10

旧 約:出エジプト記18:13~27

新 約:ルカによる福音書5:1~11

説 教:「1人との出会い」指方周平(2019年1月)

 

今朝の旧約聖書箇所には、荒れ野を旅するイスラエルの民が、烏合の衆から効率的に組織化されていく様子が記録されています。エジプト脱出から間もないイスラエルの宿営では、民の間に次々生じるトラブルへの裁きを求めてモーセの前に朝から晩まで人々が長い行列を作るようになりました。これを見たしゅうとのエトロは「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう」と言って、信頼に値する人物を選んで民の上に立て、小さな事件は彼らに裁かせ、難しい事件はモーセが裁くよう助言しました。この箇所を読んで思ったのは、目の前の1人に対する不器用なまでのモーセの真摯さでした。

 

「私はことばの人ではありません」と自認する自分の前に、延々と人々が並んでいる様子を見てはモーセが辟易した様子を想像します。主なる神に呼ばれた時「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と躊躇したモーセは決して巧みな指導者ではありませんでした。それにもかかわらず、モーセが自分の目の前に立つ1人、1人の訴えに愚直に耳を傾けていった様子を思うのです。モーセが託されたのは、男性だけで60万人という数字上の組織ではなく、あくまで目の前の1人、1人でした。

 

エトロの助言も謙遜なモーセにとっては、あくまで1人、1人が大切にされるためではなかったかと思います。主イエスには大勢の群衆が従いましたが、最初の弟子として福音書に名を記録されているシモン・ペトロ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネは、十字架前夜のゲツセマネの園にいたるまで主イエスが傍に置かれた3人でした。主イエスに毎日名前を呼ばれ続けた彼らには、自分こそ主イエスに最も目を掛けられている1人としての自負があったことでしょう。主イエスは5000人、4000人を満腹させるだけでなく、サマリアの女性1人に声を掛けられ、ザアカイ1人に声をかけられたように、100に1つも欠けてはならないかけがえのない存在として1人を訪ね、1人を招き、1人を大切にされました。

 

大伝道者パウロも、名もなき1人の異邦人の幻に、神の召しを見逃しませんでした。壮大な出エジプトもモーセ1人への呼びかけと応答から始まり、2000年にわたる福音の偉大な広がりも、ガリラヤ湖畔での主イエスとシモン・ペトロ1人、ヤコブ1人、ヨハネ1人への主イエスの招き、1人との出会いから始まったのです。モーセやペトロたちだけが特別なのではなく、私たちも主イエスに結ばれた1人です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と主イエスに命じられている私たちは、漠然とした理想の誰かではなく現実の1人を祈りに包み、主イエスに愛されたように目の前の1人を自分のように愛する事実によって、主イエスを証しするために遣わされている尊く重い1人なのです。

 

(2019年1月20日礼拝説教要旨)

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