聖 書:創世記9:18~28、ヨハネによる福音書8:1~11

説 教:「愛は多くの罪を覆う」指方周平牧師(2018年10月)

 

「あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。」(創世記9:21~23)

 

父ノアが泥酔して裸で寝ている状況に出くわしてしまった息子ハムは、それを兄と弟に知らせました。しかし、知らされた兄セムと弟ヤフェトにとって、それは決して見たくない父親の痴態でした。彼らはハムのように醜聞を言い広めることをせず、顔を背けたまま裸の父をそっと着物で覆ったのでした。後にそれを知ったノアは、セムとヤフェトを祝福しました。

 

思えば、不貞の現場を取り押さえられた女性は、裸同然の姿で衆人環視の中へ引きずり出されてきたのでしたが、主イエスは罪を暴露された惨めな彼女を直視されませんでした。逆に、彼女を好奇の目で辱め、正論で裁き、ご自身を渦中に巻き込もうと企む人々に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とだけおっしゃって沈黙を守られたのでした。やがて人々が立ち去った後、主イエスは彼女に「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されました。パウロは詩編を牽いて「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである」(ローマ4:7)と教え、ペトロも「愛は多くの罪を覆うからです。」(Ⅰペトロ4:8)と励ましています。

 

隠されてきた負い目が明らかになった時に、一目それを見てやろう、一言何か言ってやろうと心が駆り立てられてしまうのは、決して週刊誌やインターネットの中だけの特殊事情ではなく、全ての人間が抱えている生来の性質です。ですが罪を徹底的に暴くだけの正義によって人や社会が豊かに育たなかった歴史は神さまからの手紙である聖書が証しています。容赦ない裁きではなく弱さをそっと覆う愛こそが人間を造り上げていきます。罪に折れてしまった人も赦された驚きに触れ、喜びと感謝を新しい根とされて「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と命じられる主イエスに従う者・主イエスに似た者へと静かに着実に変えられていくのです。

「ノアの酩酊」ジョヴァンニ・ベッリーニ作 1515年頃

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