招  詞 マルコによる福音書1:34

旧約聖書 歴代誌下15:1~8

新約聖書 使徒言行録4:13~31

讃  美 歌 Ⅰ-79、Ⅰ-77、21-564 

交読詩編 69:17~22

説  教「神の前に正しいかどうか」指方周平牧師

 

おはようございます。

先週は母校のキリスト教愛真高校の評議会出席のため島根県江津市に行って参りました。ここでは毎朝礼拝が守られています。今年、愛真高校は創立30周年なのですが、この間、自分が在校生としていた時も含めて、途切れることなく礼拝の灯が守られてきたことを思い起こしておりました。

今朝の新約聖書箇所には「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」というペトロとヨハネの言葉が収められておりますが、この言葉を黙想しつつ思い起こしたのは、愛真高校に在学中、朝の礼拝で聞いた渡部良三というクリスチャンの話でした。

日本が中国で戦争をしていた時代、日本軍の駐屯地で中国の兵士5人の処刑が行われたそうです。杭に縛り付けられた捕虜を前に、まだ顔に少年の面影が残る新兵が並ばされ、上官は「度胸試しの訓練」と称して銃剣で捕虜を殺すことを命じ、新兵たちは震えながら次々捕虜を突き刺したといいます。4人が絶命し5人目になったところで、かねてからクリスチャンということで目を付けられていた渡部良三という新兵の番になりました。軍隊においては、どんなに理不尽な命令であっても、上官の命令は天皇の命令であり絶対です。しかし、この時、彼の中では「汝、殺すなかれ」という声が響き、渡部さんは黙ったまま立ち尽くして殺すことを拒否したのでした。これをきっかけに、渡部さんに対する上官による陰険なリンチの日々が始まったのでしたが、学徒出陣に際し、父親から「信仰も思想も良心も、行動を伴わなければ先細りになってしまう。沈黙が信仰を守ってくれると考えることはおごりだぞ」と諭されていた渡部さんは、命がけで殺すことを拒否し続けたのでした。これは何百年も昔の話ではなく、ほんの70~80年前のことですが、同じ時代、ヒトラー率いるナチスが力を握っていたドイツでは公務員に対するヒトラーへの全面的な忠誠を誓う宣誓が義務付けられました。しかし、信仰のゆえにその服務規程を拒否したカールバルトという神学者は、勤めていた大学を辞めさせられ、裁判にかけられました。また日本でも国家の都合と介入によって教会が合同させられ、日曜礼拝の開始に際しては天皇がいる皇居の方角に向かって宮城遥拝が国民儀礼と言う名の元、強制されました。理屈をつけて、これに従った牧師が大多数だった中、これを偶像礼拝として拒否した牧師たちもおりました。しかし、その牧師たちは逮捕され、その教会は排除されることが実際に起こりました。現在も、中国では地下教会・家の教会とよばれるクリスチャンの集まりがあり、そこに集い、信仰を守っている中国人クリスチャンたちも、当局に逮捕されるリスクを背負いながらも、礼拝を守っています。

ここに語ったのは、ほんの一例ですが、歴史の流れの中では、実にたくさんの人々が信仰のゆえに危険にさらされ、時には命をも奪われました。しかし、これらの人々が、信仰を貫き通したのは、人間や国家といったこの世の権威よりも、全治全能の創造主のみを第一とし、真っ直ぐに畏れ、従っていたからでした。十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト20:3)とあるとおりであります。旧約聖書が繰り返し訴えたのは、主なる神だけを唯一とすること、この主なる神の御許に立ち返ることでした。主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)とおっしゃられましたが、信仰のゆえに命を失った人々は、決して大げさに殉教したのではなく、ただ単純に、主なる神以外の何者をも神とすることを否んだだけだったのでした。

 

今朝の旧約聖書舞台は、建国間もない南ユダ王国であります。南ユダ王国とは、ソロモンの知恵で知られるソロモン王の死後、紀元前921年に南北に分裂してしまったイスラエル統一王国の南の片割れであります。そして、ここには、南ユダ王国の3代目の王アサの名前が登場します。アサが王様になったのはイスラエルが南北に分裂してまだ10年程しかたっていない時でした。歴代誌下13:23には、アサが王になってからの10年間、国は平穏であったと記されてはおりますが、国力が南北に二分され、内政においては10年を経ないで王が3人も変わり、外交的には周囲を大国に囲まれる中で、南ユダ王国に暮らしていた人々の生活が不安定だったことは想像に難くありません。そして、何とか落ち着いた生活を確立するために、南ユダ王国の王宮には様々な知恵が持ち寄られ、諸外国とは政治的な交渉もなされたことでしょう。その中で、心の拠り所を求めた人々は、外国から持ち寄られた偶像に寄りすがるようになっておりました。

そんな時代に、神の霊に押し出されてアサ王の前に進み出て進言したのが、預言者オデドの子アザルヤという人物でした。

彼は、こう言いました。

「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」

 

アザルヤが訴えたことを一言でいえば「主なる神に立ち返れ」という単純なことであります。現実の困難、不安の中で、人間の知恵や力、計画を頼みとするのではなく、神ならぬものを神とするのでもなく、主なる神を第一とせよというシンプルにして力強いメッセージでした。

様々な情報や意見が錯綜する中、内外からのプレッシャーを担って落胆することもあったであろうアサ王は、主なる神を第一とする原点を示されて勇気を得、国の中から神ならぬ偶像を一掃し、主なる神に立ち返る決意表明としてエルサレム神殿の祭壇、礼拝に欠かせない祭壇を新しくしたと言います。「こうして彼の統治の下で国は平穏であった。主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。」と歴代誌下14:4~5には記されております。歴代誌にはソロモン王以後、南北に立てられた39人の王の記録が収められておりますが、その中で、このアサ王は後の時代のヨシャファト王、ヒゼキヤ王、ヨシヤ王と並んで、人々を主なる神に立ち返らせるために献身的な働きをした信仰に忠実な王として名を刻んでおります。

 

さて、時代はアサ王の南ユダ王国から900年が過ぎて紀元1世紀の初代教会の時代に移ります。

主イエスの昇天後、ペンテコステの日に聖霊を受けて力を得た使徒たちは、主イエスを見捨てて逃げ出し、復活を知らされても部屋に鍵をかけて隠れていたあの憶病さからは別人のように、大胆に主イエスを証し始めました。

そして、エルサレムの中心である神殿において、足の不自由な人を癒し、民衆に向かって教え、主イエスに起こった死者の中からの復活(使徒4:2)を宣べ伝えたのでした。この時、ペトロとヨハネの語った言葉を聞いて信じた人は男の人だけで5000人になったといいます。

しかし、ほんの2か月もたたない前に、主イエスを十字架につけた人たちは、これを快く思わず、使徒ペトロとヨハネが民衆に話しているのを見ていらだち、二人を捕えて牢に入れたのでした。そしてその翌日、議員、長老、律法学者たち、大祭司とその一族までもが都エルサレムに集まってきて、捕えたペトロとヨハネを真ん中に立たせて「お前たちは何の権威によって、だれの何よってああいうことをしたのか」と尋問をしたのでした。

これは単なる吊るし上げではありません。例えて言えば、国会において、国会議員や大臣といった国民の代表者、国の権力者たちに囲まれて、万人の目に晒されて真偽を問われる証人喚問であります。そして、そこに立たされているのは、力屋知恵のある専門家、権力者ではなく、田舎のガリラヤの漁師たちであります。

しかし、彼らは怖じることなく、その場に立ったのでした。そして、それは決してペトロやヨハネの意地や使命感によるものではなく、ただ聖霊に満たされて(使徒4:8)のことでした。そして自分たちが問い詰められている場で、逆に「わたしたちが救われるべき名は、天かにこの名のほか、人間には与えられていないのです」と宣言したのでした。まさに主イエスが「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)とおっしゃられた通りでありました。そして、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が、ただ主イエスと一緒にいただけの、無学な普通の人であることを知って、この世の権威者たちは驚いたのでした。そして、ペトロとヨハネが主イエスの名によって歩けるように回復させた人が、彼らと一緒にいるのを見ては、何も言い返せなかったと言います。

しかし、主イエスを十字架につけた側の人間としては、主イエスの御名が民衆の間に広まらないようにするために「今後あの名によってだれにも話すな」と脅すことにし、ペトロとヨハネに向かって、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令したのでした。そして、これは議員、長老、律法学者たち、大祭司とその一族といった、イスラエルの政治、宗教の指導者、権力者の中でなされた命令でした。

しかし、ペトロとヨハネは、この世の権力者を前にしてこう答えるのです。

「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

 

さて、ペトロとヨハネを脅したこの世の権力者たちは、彼らをどう処罰していいか分からなかったと言います。そして、それはペトロとヨハネの教えを聞き、奇跡を目撃した民衆を恐れていたからでした。

2000年昔の時代から、世の支配者たちは真理に従うことよりも、民衆の世論(せろん)や機嫌に意思決定を左右されていたのだと思わされますが、今朝の聖書箇所を通して、神さまが私たちに語りかけようとしておられることは何だろうかと思い巡らせますと「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。」「主に立ち返り、主を求める」「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」という言葉が輝きを帯びてきます。そして、ペトロとヨハネの証しを聞いた人たちが心を一つにして「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と信仰を告白して神に向かって声を上げたように、天地万物を創造された全知全能の主なる神だけを唯一とする従順を思い起こし、この主なる神の御許に立ち返る祈りの祭壇を、世の雑踏と世渡りの中でくたびれている心に新たに築き直すのであります。

聖書は、今朝の聖書日課の締めくくりにおいて「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」との祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだしたと証言しております。

わたしたち人間は、この世の権威や状況、時代の変化とは無関係に生きられない現実におります。日大アメフト部の体質問題にしても、財務省の文書書き換え問題にしてもそうですが、自分の上に立つ権威の思惑を気にし、自分の良心に従うことよりも、忖度すること、狭き門から入ることを選ぶよりも、その時の周囲の状況に流されることは、どんな人間も、どんな世界でもありうる誘惑であり、危機なのだと思います。

 

その中で、私はどこに立つのか。何に従って生きるのか。

 

私たちキリスト者は、それを知っています。わたしたちはイエスを主と告白した存在です。今朝の招詞箇所マルコ福音書の冒頭1:34に「悪霊は主イエスを知っていたからである」とありましたが、私たちはその権威の前には悪霊さえも打ち砕かれひれ伏する全治全能の創造主を神と告白し、そこに立ち、従って生きるのです。神の前に正しいかどうかを基準にして考え、判断し、行動するのです。

救われてなお、揺らぐこともありますが、迷っても、転んでも、それでも立ち返り、主を主と告白し続けながら日々を生きるのです。

ペテロやヨハネは無学な普通の人でした。しかし、全治全能の創造主から聖霊を受け、唯一の神を主と告白し、畏れ、従う者には大胆な力がありました。この世の何者にも、何事にも揺るがされない平安と確信があったのです。

主なる神を第一とする。主なる神に従う。そんな力も決心も大胆さも、誠実さも信仰も、私たちのただ中からは絞っても出て来ませんが、主イエスは全てを与えてくださいます。主イエスが味のしない私たちを、塩で味付けをしてくださいます。

韓国語では神さまのことはハナニム・唯一のお方と呼ばれていますが、これは実に的を得ています。主なる神を唯一とする。この唯一のお方に従う。この唯一のお方の前に正しいかどうかを判断と行動の基準とする。

先行き見えない困難な時代状況の中で、情報や手腕を第一とするのではなく、天地万物の創造主である神さまに立ち返ったアサ王は神殿で礼拝を献げる祭壇を新しくしましたが、私たちが神さまに祈りと感謝を献げる祭壇とは主イエスの御名であります。

世の思い患いの中ではいろんな判断の場面で迷い、その後で後悔もしますが、主イエスを選択肢の一つに貶めるのではなく、ただ、主イエスの御前に立ち返ればよいのです。主イエスの御言葉に従うこと、主イエスの御名によって求めることを第一に据え直し、主イエスによって救われた者として状況分析や損得勘定による小賢しさから解放されたら良いのです。そうして大胆に遠慮なく唯一の神を畏れ、唯一の神に淡々と従う真の自由人として発言し、行動し、それによって私たちのただ中におられる主イエスを証してまいりたいと祈るのであります。

 

説教後の祈り

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。天においてあなたの愛と真理が満ち充ちておりますように、この地上の私たちの間にもあなたの御心がおこなわれる御国が来ますように。

神さま、天地万物を創造された全知全能のあなたが唯一のお方です。私たちを造り、生かし、主イエスを与えるまでに愛していてくださるあなたが、いつでも、どこでも、私たちの味方です。

そのあなたの御心を問うこと、あなたに従うことで、本来の命の状態を大胆に生き、思い切って大胆に御言葉を語り、あなたの愛を喜んで証してまいれますよう、どうか私たちを聖霊で満たしてください。そして遣わしてください。あなたが油を注がれた聖なる僕イエスの名によって(使徒4:27,30)祈ります。アーメン

ご覧になって頂き

有難うございました

 

   日本キリスト教団

  東 所 沢 教 会