説  教 「神の偉大な業を伝える」

招  詞 ルカによる福音書11:13

旧約聖書 創世記11:1~9

新約聖書 使徒言行録2:1~11

 

ユダヤの五旬祭・ペンテコステの日に弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人にとどまると、一同は聖霊に満たされ″霊″が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したと言います。五旬祭で賑わうエルサレムには、天下のあらゆる国々から、外国暮らしのユダヤ人たちが大勢帰国していたのでしたが、天からの音を聞きつけて集まって来たこれらの人々は、自分たちが普段暮らしている国々で使われている外国語で、主イエスの弟子たちが神の偉大な業を語っているのを聞いてあっけにとられ、驚き怪しんでしまったといいます。今朝の旧約聖書箇所には、かつて世界中、同じ一つの言葉を使って話をしていた人間が、天まで届く塔のある町を建て始め、これをご覧になって人間の力の暴走を危惧された主なる神が、人間の言葉を混乱させて全地に散らされたという「バベルの塔」の出来事が記されておりましたが、今朝の新約聖書箇所には、それと真逆の出来事が起こったかのように、聖霊の力によって最初の教会が誕生した様子が記されています。

 

これ以降、弟子たちは、主イエスを証するために世界中に遣わされていくのですが、彼らは十字架の前夜、主イエスを見捨てて逃げ出した臆病な弟子たちと同一人物です。人はたった50日で変わることができるのでしょうか。主イエスの十字架は弟子たちにとって衝撃であり、主イエスの復活も弟子たちにとって歓喜だったと思いますが、深い後悔であれ、大きな感動であれ、人は自分の感情や決意を根拠とする回心や決心によっては習慣や生き方を根本から変えられることはありません。人は、自分の外から注がれる聖霊を受けなければ、主なる神の御心に適った存在として新しく生きることができないのです。

 

弟子たちは、天からの聖霊を受けたからこそ、神の偉大な業を伝える手紙として遣わされて行きました。2000年昔の世界を生きた彼らでなければ伝えることできなかった当時の人々のもとへ遣わされて行きました。思い起こせば、私たちにも、あの人が伝えてくれたから、教会に誘ってくれたから、寄り添い続けてくれたから、祈り続けてくれたから、主イエスの愛に気付けたという懐かしい人がいるはずです。同様に、主イエスに結ばれたこの私が祈りに包み続けなければ、主イエスの愛に気付かないという人が今もきっといるはずです。

 

神の国の福音は、その人でなければ伝えることのできない隣人へと手渡しで伝えられながら、2000年以上にわたって脈々と国境や時代を超えて来ました。それは人間の意図や努力に拠るものではなく、ただ父なる神が主イエスの名によってお遣わしになった聖霊がなさしめた御業であり、私たちも確かにそれを受け取ったのです。聖霊は私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合に関係なく、私たちの間に脈々と注がれており、今も、そして、これからも私たちのただ中に充ち満ちています。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とは主イエス直々のお約束なのですから、私たちも聖霊を祈り求めつつ、この時代、この自分でなければ福音を届けられないあの人のもとに、キリストがお書きになった神の偉大な業を伝える手紙として遣わされてまいりたいのです。

 

(2019年6月9日ペンテコステ礼拝)

エル・グレコ作「聖霊降臨」1605~1610年頃 プラド美術館蔵 

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   日本キリスト教団

  東 所 沢 教 会