聖書 ヨハネによる福音書21:15~25

説教「あなたの神はあなたを喜びとされる」 

 

 先週は、故郷のティベリアス湖で夜通し漁をしたにもかかわらず何も得られなかった主イエスの弟子たちが、夜明けの岸辺から聞こえてきた「舟の右側に網を打ちなさい」との声に従って網を打ってみると引き上げることができないほどの大漁になり、陸に上がってみると復活された主イエスが炭火を起こして待っておられ「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれ、パンと魚を分け与えられたという箇所を辿りました。
その続きとなる今朝の聖書舞台において、主イエスはシモン・ペトロを本名で「ヨハネの子シモン」と呼びかけられ、「わたしを愛しているか」と問われました。
思い起こせば主イエスが捕らえられた十字架の前夜、ペトロは「イエスの愛しておられた弟子」ことヨハネと一緒に距離をとりながらも大祭司の屋敷まで主イエスを心配してついていったのでしたが、人々から主イエスとの関係を問いただされたペトロは、主イエスが予告しておられた通り、鶏が鳴く前に3度も重ねて主イエスとの関係を否定してしまったのでした。
それがペトロの精一杯でした。

 

 今朝の聖書舞台において、復活の主イエスが「わたしを愛しているか」とペトロに問い直された朝のティベリアス湖畔でも、きっと鶏は鳴いていたことでしょう。
主イエスは、鶏の鳴き声を背景に、ご自身を否認した自責の念に押しつぶされているペトロに「わたしを愛しているか」と、神の愛を表すアガペーを用いて問われたのでしたが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたペトロの愛とは、アガペーの愛ではなく人間の友情を示すフィレオーの愛でした。
それがペトロの精一杯でした。

 

 このすれ違いに、人知をはるかに超えるキリストのアガペーの広さ、長さ、高さ、深さと、人間が絞り出すフィレオーとの歴然たる違いを思い起こすのですが、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられた主イエスは、3度目にペトロに問いかけられる時、ペトロの目線に降りてアガペーからフィレオーに言い替えて「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問い直してくださったのでした。
こうまでして主イエスに寄り添われたペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです.わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるのが精一杯でした。

 

 そして心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主イエスを愛そうにも、そうはできなかった自分への自責の念に押しつぶされているペトロ、これからも主イエスと自分との間で揺れ続けるであろうペトロに、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」「わたしに従いなさい」とおっしゃられたのでした。
この時ペトロは自分が主イエスを愛するに先んじて、主イエスを否認した自分さえも愛し、喜びとされる主イエスの真実に圧倒されたことでしょう。
その主イエスの愛と真実に貫かれて、そのイエスを愛している自分、その主イエスに従っていきたい自分と出会い直したことでしょう。
ヨハネによる福音書21章は後から加筆されたともいわれる箇所ですが、主イエスのなさったことはたくさんある中で、最初の弟子の一人であるヨハネが、加筆の手間を重ねてでも後代の弟子たちに証ししたかったことの一つはペトロの信心や使命感に先んじて「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とおっしゃって、ペトロを待っておられた十字架と復活の主イエスの真実ではなかったかと私は思いを巡らせています。


 私は、主イエスが直々に選ばれ「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とまでおっしゃられたペトロが必ずしも立派な聖人君子ではなかったことにしばしば安堵と慰めを覚えます。

同時に、自分の状態や周囲の状況に翻弄され「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と、自分と誰かとを見比べることにいとまの無い狡さや卑屈さをも容赦なく赤裸々にされながら、何度失敗を繰り返しても主イエスの御もとに立ち返ること、主イエスに従うことは最期まで諦めなかった愚直なペトロの姿に、神の栄光を現わす信仰生活の神髄を教えられる思いがいたします。
そのペトロに注がれた十字架と復活の主イエスの愛と真実で、この私をも満たしてください、私をも用いてくださいとの祈りと願いを携え直して、今週もこの礼拝の場から、神の栄光を現わす各々の現場へと送り出されてまいりたいのです。


説教後の祈祷

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。
天において御心が行われておりますように、地上に、私たちの間に、主の御国が来ますように。
あなたさまは、身を持ち崩し荒廃していた私たちが罪と死によって滅び去ることを惜しみ、御子イエスをこの世の私たちの只中に宿らせ、その十字架の真実に結び直して私たちを喜びとしてくださいました。
私たちの理解が追い付かない信仰告白に先んじて、私たちの実体の伴わない信仰生活に先んじて、すでに私たちを神の愛で包んでくださっている恵みをただただ感謝します。
人は、罪を糾されてからではなく、ただ十字架の主イエスの真実に包まれてこそイエスをわが主と心から信じて告白し、主イエスに従う者として御国の栄光に用いられていくことを思います。
主イエスのいのちに接ぎ木され不可分とされた私たちが、もはや恣意的に絞り出す信心や悔い改め、使命感や義務感によって葉っぱばかりを繁らせるのではなく、主イエスの霊によって養われて、キリストの香りを放つ実を結ぶ枝となることができますように、今週もあなたさまが、御自身に象って造られた私たちひとりひとりを喜びの存在として育ててください。
私たちひとりひとりの名を呼んで「あなたは、わたしに従いなさい」と招き、導き続けてくださっている主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

(2024年4月21日 復活節第4主日礼拝説教)

 

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   日本キリスト教団

  東 所 沢 教 会