説 教

説教「不格好でも要」 指方周平牧師   (2014年8月)

聖書 マルコによる福音書93341 

 

 主イエスは、自分たちの中で誰がいちばん偉いかと議論していた弟子たちに向かって「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」とおっしゃり、1人の子どもの手を取って真ん中に立たせ「わたしの名のためにこのような子供の1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と弟子たちを諭されました。現在でこそ純真無垢の愛らしい象徴にたとえられる子どもですが、実は2000年昔の主イエスの時代、まだ何の経験もなく、考えは浅く、体は小さくて力仕事のできない子どもとは、つまらない者、役に立たない存在の代名詞でした。立派さを誇り、偉さを競っていた弟子たちにとって、主イエスがそんな子どもを手本として自分たちに示されたことは心外だったかもしれません。

 

ただ、立振舞いや言葉遣いといった見える部分は大人だったとしても、誰もが心の奥深くに子どものまま成長の止まった幼い自分を隠していることを思います。誇れる長所ばかりではなく、他者と比べて見劣りする部分、蔑まれる負い目や取り返しのつかない過去を清算できないままたくさん抱えている自分。ほとんどの場合、それらは非常にもろく、傷つきやすく、壊れたままでありましょう。私たちは、そんな不格好な弱点を克服しなければならない課題と考えますし、それができないなら、誰からも触れられないように隠し続けなければと膨大な時間やエネルギーを密かに費やしていることを思います。

 

しかし2000年昔、動物の餌入れ(飼い葉桶)にお生まれくださった主イエスは、臭いものに蓋をしているだけで手の付けられない私たちのドロドロした心にそっと宿り、私たちの弱さを裁くことなく、見限ることなく、寄り添ってくださいました。偉さを競う弟子たちに僕として仕えることを教えられた主イエス。天から下りて地上の現実に誕生され、選ばれなかった人、裁かれていた人、嫌われていた人たちを積極的に訪ねて友となられた神の御子イエス。遂には裏切られ、見捨てられ、十字架上でボロボロの惨めな姿を人々の前でさらけ出されながら、私たちの罪の身代わりとなって殺されていった救い主イエス。天地万物を支配される無限の存在でありながら、その強さを脱いで敢えて人間の弱さを纏い、私たちを救うためにこの世にお生まれくださった神の御子イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

 

受け入れられた弱さは、力となり、絆になります。

私たちは頑張ったから選ばれたのではなく、主イエスは何の条件を付けることなく、折れた葦のような私たちを招き、受け入れてくださいました。この方こそが全ての教会の要です。パウロは「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」(コリントⅠ1224b26)と勧めています。たとえ立派な結果や誇れる強さを持っていなかったとしても、私たちは子どものような未熟さを抱えたままで、十字架の絶望と敗北の死からも永遠の命の希望を紡ぎ出すことのできる主なる神によって救われ、キリストの体である教会に加えられたかけがえのない11人なのです。だからこそ、主イエスに倣って互いに配慮し合い、隠しても滲み出てくる弱さ、欠けた部分にそっと寄り添い、仕え合いながら、神の国を目指して弱さを要とされる十字架の主イエスの御跡を共に辿って参りたいのです。 

 

2014810日礼拝説教要旨)

 

ご覧になって頂き

有難うございました

 

   日本キリスト教団

  東 所 沢 教 会