説 教

説 教 「主イエスが語られた幸い」指方周平牧師(201410月)

聖 書  マタイによる福音書5:1~12

 

2000年昔のガリラヤの風薫る丘で、主イエスは病気や苦しみに悩む人々に向かって「幸いである」と8回も繰り返して宣言されました。主イエスが「柔和な人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」が「幸いである」と語られたことは「清く正しく生きていれば幸せになれます」と説明されているようで納得もしやすいのですが、それらと入り混じって「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」「義のために迫害される人々」にも同様に「幸いである」と宣告しておられることには無理があるように思えてなりません。どうして「心の貧しい人々」が幸いなのか、なぜ「悲しむ人々」が幸いなのか。古来より主イエスの御言葉に忠実であろうとした人々が、主イエスが語られた幸いについて思いを巡らせてきたことを思います。

 

大阪の釜ヶ崎で長年ホームレス支援に携わってこられた本田哲郎神父は「心の貧しい人々は幸いである」という聖書の言葉が、社会的弱者に沈黙と忍耐を押し付けてきた誤訳であると指摘され、主イエスが宣言された「幸い」の本来の意味を考察しておられます。新共同訳聖書で「幸いである」と訳されたマカリオイ(μακάριοι)というギリシャ語が、もともとはアシュレー(אשרי 祝福・幸い)というヘブライ語に意味の根を持つ言葉であることを指摘された本田神父は、旧約聖書においてアシュレーが、辛い現状を乗り越え、将来を切り開くための感性と力を保証する神からの励ましの言葉として用いられていることを踏まえて「幸いである」と訳すよりも「神からの力がある」と訳する方が、主イエスのおっしゃられた意味により近いと考えられて、この箇所を「心底貧しい人は、神からの力がある。天の国はその人のものである」「死別の悲しみにある人は、神からの力がある。その人は慰めを得る」と意訳しておられました。

 

主イエスが語られた幸いについて思い巡らせる中で気づかされたことは、主イエスは辛い状況にある人々が幸せになれる方法を教えてくださっているのではなく、神の御子・救い主として「神からの力がある」「インマヌエル・あなたと共にいる」と、先回りして私たちに宣言しておられるということです。貧しくても、悲しんでいても、義に飢え渇いて迫害されていても、わたしはあなたと共にいる、あなたには神からの力がある、あなたは幸いだと言い切ってくださった主イエスは、神であられながら人としてこの世に降り、あらゆる辛酸を舐め尽くされ、ついには何の罪咎もないのに十字架につけられ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の断末魔を残して死なれた方でした。そして、この方を救い主と仰ぎ希望をおく私たちは主イエスが殺されて終わりではなく3日目に復活されたこと、死で終わりではない大いなる喜びが私たちのために用意されているという約束を知っています。

 

柔和さや心の清さばかりでなく、貧しさも悲しさも併せ持つ私たち1人1人を招き、キリストの群れとして私たちをつなぎ合わせる要には、わたしはあなたと共にいる、だからあなたは幸いだと言い切ってくださった主イエスがいつでも、どこでも共におられます。そして、私たちが癒えない悲しみや克服できない弱さ、どうしようもない不幸の只中から、それでも神からの力がすでに私たちと共にあるのだという主イエスの約束を浮き彫りにする時「天の国はあなたたちのものである」という主イエスの宣言と共に、この世の浮き沈みには一切左右されない神の国が、静かに確実に私たちの周りに実現していくことを信じるのです。

20141019日聖日礼拝説教要旨)


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   日本キリスト教団

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