説 教

説 教 「神を賛美する楽譜」 指方周平牧師   (20146月)

聖 書 列王記上19:11~12

 

「進み続ける」といいますと、前向きで生産的な姿勢を連想しますが、逆に「休む」といいますと、どこか消極的で後ろ向いた姿勢を連想しがちです。しかし休むということは、単なる停滞でしかないのだろうかと、いつも思い巡らせるのです。19世紀イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンは楽譜を指して「休止符に音楽はないが、その中には、音楽を作り出すものがある。」と語っています。この言葉から、私たちの生涯の歩みは、楽譜に譬えられることを思いました。

 

今から約2900年昔、北イスラエル王国で活動した預言者エリヤは、主なる神の預言者として生き残った唯1人で、偶像バアルの預言者450人(と、アシェラの預言者400人)と対決し、主なる神の絶対性を華々しく証明して勝利し、預言者人生の絶頂に登り詰めました。しかし、この直後、バアルの信奉者にして国の王妃であるイゼベルの逆恨みを買ってしまったエリヤは、命を狙われて逃亡した末に「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」と自殺願望を抱くほどに憔悴してしまったのです。このように主なる神は、時々、思いもかけない躓きや挫折、病気や困難な状況を私たちの歩みに添えることによって、私たちという楽譜に、予想もしなかった休止符を書き記されることがあります。

 

しかし失敗のない順調な日々や、情報の喧騒の中では決して聞こえてこない大切な声があるのです。立ち止まってしまったと思える挫折の時や、音が小さくなっていく、遂には途切れてしまった静寂の中でしか見つけられない、人生のステップや大切なアクセントがあることを思うのです。エリヤにとって、最も大切なアドバイスは、イスラエルの民衆の熱狂的な支持を獲得したカルメル山での勇ましい成功の時ではなく、一転して命を狙われ、逃亡の末に燃え尽きてしまった時に、静かに、ささやくようにして聞こえてきました。 やがて、そこだけにこだわり続ければ敗北でしかない断絶の時、何も聞こえない休符を経て、エリヤの楽譜は再び奏でられ、主なる神を賛美するエリヤと言う名の楽譜は、途切れることなく天へと響き渡って行ったことを思うのです。

 

預言者エリヤだけが特別なのではなく私たちも同じ人間です。そして私たちという楽譜の作曲家は紛れもなく主なる神様なのです。天地万物を創造された同じ御手によって、御自身にかたどって私たちを造り、御子イエスの命を与えるほどに私たちを愛し、日毎に命を注いで生かしてくださる主なる神様は、何の計画もなしに私たちの日々に音符や休符を記されることはありません。そして美しい楽譜には、平たんで滑らかな流ればかりではなく、必ず転調や休止符の変化に富んでいます。今、縮小していく不安、リズムが変わっていく戸惑い、挫折と後悔の休止符に悶々と留まり続けている人がおられるかもしれません。しかし停滞を連想してしまう休止符や転調を経なくては、その後に紡ぎ出し得ない美しいメロディーの続きが誰にも必ず用意されています。そして、どんな時も、主イエスが私たちを指揮し、聖霊の息吹が私たちを奏で、主なる神が私たちの調べを聴いていてくださいます。 新しい1週間の出発に際して、たとえ音が大きく聞こえていても、全く聞こえなくなっても、神を賛美する壮大な楽譜の中にあっては、やがて過ぎ行く1小節であることを思い起こして、今週も、神の国を目指して主イエスの御跡を辿る歩み、主イエスを証しする歩みへと、この礼拝から再び送り出されて参りたいと思うのであります。

 

2014.6.29国際愛伝道所との交換講壇礼拝説教要旨)

 

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   日本キリスト教団

  東 所 沢 教 会