旧 約:出エジプト記20:8~11

新 約:ルカによる福音書6:1~11

説 教:「安息日の心」 指方周平(2019年2月)

主なる神がイスラエルに与えられた十戒は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じています。出エジプト記には安息日の厳守が繰り返し記されており、荒野の40年とはイスラエルが、この一事を確立する訓練期間だったと言っても過言ではないと思います。1週間の1日を聖別して休む習慣は、異邦人には不思議に映るとともに、イスラエルにとっては聖なる国民としてのしるしになったことでしょう。しかし後世になると、安息日の伝統はしばしば型だけが独り歩きし、文字通りには順守できない人々を裁く物差しに貶められてしまったのです。本来イスラエルが、安息日を守ることで心に留めようとした主なる神の御心は何だったのでしょうか。

 

ある安息日に主イエスが会堂に入って教えておられた時、そこに右手の不自由な人がいました。これは主イエスを快く思わないイスラエルの宗教指導者たちが、主イエスを陥れるためにあらかじめ仕込んでいた人でした。主イエスが癒されなければ癒せなかったと言いふらし、癒されたら安息日を破ったと訴えるつもりだったのです。主イエスは安息日を裁きに利用し、隣人の障害さえ自分たちの思惑のために利用する人々に「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と問われ、一同を見回して、目の前の隣人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃられました。すると、その手は癒されたのです。

 

十戒の最初に「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」と啓示され「人の子は安息日の主である」と宣言された主イエスは、目の前の隣人を助ける事実によって、旧約聖書の律法が文字によって包もうとした主なる神の愛を瞭然と示されたのでした。

 

聖書を専門的に知っているだけでは不十分です。神は愛です。愛がなければ、何の益もなく、無に等しいのです。主なる神の御心・愛を第一として生きることは、何と自由で力強いことでしょうか。主イエスに赦され愛されたように、目の前の隣人を自分のように愛する時、私たちは確実に主なる神の御心に適っているのです。

(2019年2月10日礼拝説教要旨)

AlexandreBida(1813~1895)Illustrations of the life of Christ

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