招 詞:マルコによる福音書8:17~18

交 読:詩編52:3~9

旧 約:エレミヤ書23:23~32

新 約:ガラテヤの信徒への手紙5:2~11

説 教:「真理に従う」指方周平牧師(2018年7月)

 

按手礼を受けて遂に牧師となった年の夏休みに1人で祖父母の家を訪ねました。子どもの頃は母に連れられて毎年遊びに行った場所でしたが、大人になった私にとってこの時の訪問は数年ぶりであり、そして祖父母がそろって迎えてくれた最期となりました。

全国でB級グルメが流行り始めたこの頃、祖父母の町では鍋焼きラーメンと言うご当地グルメが売り出されており、秋篠宮ご夫妻も来たという食堂の店先で祖母と「皇族もラーメン食べるんやね」と他愛もない会話をしながら並んだことが今はとても懐かしいです。

この日の夜、先に寝ようとした祖父が、ふと私にこう言いました。「周平、…申命記の13章あたりに『あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。』とあるが、これはどういうことかね」ギクリとしました。祖父には小さい時からさんざん可愛がってもらいましたが、こんな真面目な質問をされたのは30年近くのふれあいの中で初めてだったからです。そしてこの一回限りでした。

文字通り一生に一度の大切な会話になったかもしれないのに、この時、自分がどのように答えたのかはっきり思い出せません。ゆえに今も聖書通読をしながら申命記の4章と13章に出てくる「何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」という箇所を辿り直す度に、あの時、祖父は牧師になった孫と何を分かち合いたかったのか、孫に何を伝えたかったのだろうかと消化できていないまま思い出すのです。

 

南ユダ王国が大国・新バビロニアの属国に陥った激動の時代に預言者として主なる神に召されたのは20歳そこそこの若者エレミヤでした。エレミヤは南ユダ王国の陥った困難は時代情勢の中での必然ではなく、主なる神を侮った罪の報いとして起こされた出来事なのだから、悔い改めて唯一の神に立ち返れと訴えました。

ただ、この時代、南ユダ王国にはエレミヤ以外にもたくさんの預言者がおり、中には指導者たちの意思決定に影響を与えるような有力な預言者もいたのでしたが、それらの全てが全て、真実の預言者だったわけではありませんでした。すなわち、自分の心が欺くままに預言し、主の御名をみだりに利用して民を惑わせる偽りの預言者がいたのです。主なる神は、そのような気まぐれな預言者たちに「わたしは自分の舌先だけで、その言葉を『託宣』と称する預言者たちに立ち向かう」(エレミヤ23:31)と厳しくおっしゃられたのでした。

これらの預言者たちが何を根拠に「託宣」を語っていたのかを思います。偽預言者と言いますと詐欺師にも通じる胡散臭いイメージを抱きますが、彼らとて国の困難から何とかして脱したかったはずです。そして彼らの言葉にも情報網を駆使して得た分析や、そこから導き出した未来予測といったそれなりの根拠があったことを思います。しかし、彼らは預言者として、まず主なる神の御言葉に立ち返り、忠実に語り伝えるべきだったのに、主なる神を第一とすることよりも情報分析を偶像に据えた政治評論家に陥っていたのです。この後、この舌先に迷わされた南ユダ王国の指導者たちは新バビロニアへのクーデターを起こして返り討ちに会い、ついには国家滅亡、バビロン捕囚という苦難に飲み込まれていきます。

この出来事より、自分は自分の思惑で御言葉を付け足したり減らしたりしていないかと、「わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい」との御言葉が、火のごとく、岩を打ち砕く槌のごとく厳しく迫って、自らを問われ直す思いがするのです。

 

さて、パウロは第2回伝道旅行の時、ガラテヤに教会を設立したのでしたが、パウロがここを去った後、教会に大きな問題が生じました。それは「反対者」と呼ばれる人たちが入ってきて、パウロが教えたのとは違う教えを、あたかも本物のようにして唆し始めたのです。「反対者」たちの教えは、救われるためには律法の教えを実践することも必要だというものでした。これは救われるために必要なのは、ただ信仰だけであると教えたパウロと真っ向から対立します。そして「反対者」たちはパウロの使徒職も無効であると訴え、ガラテヤの信徒たちは、何が正しい教えなのか、どこに立てばよいのか混乱し始めたのです。

この状況は、南ユダ王国における不真実な預言者たちの言葉による混乱、真実を訴えるエレミヤを疎んじた不真実な預言者たちによるエレミヤへの迫害と重なります。このようなガラテヤの教会の混乱を伝え聞き、このままではいけないということでパウロが執筆したのが「ガラテヤの信徒への手紙」です。この手紙はパウロの教えを明確に示している書物であり、人が主なる神に近づくことを妨げるあらゆる権威や制度、律法に集約される慣習を否定して、福音の純粋な自由を主張しております。

今朝の聖書箇所5章は、そのガラテヤの信徒への手紙の結びに相当する部分で、パウロは「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(5:4)と、恵みによって既に神の子とされているのに、今更、律法を自力で守ることによって、神の子になり直そうなどとの愚かな考えがわずかでもあるのかと問いただしています。

そしてパウロは「いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」と福音の形式・律法主義化を画策している「反対者」たちの偽りを指摘し、自分の伝えた福音が律法からの自由そのものであったことを思い出させ、キリスト・イエスに結ばれているから、主をよりどころとしているからこそ、キリスト者は自由なのだと明確に言い切ったのでした。

 

しかし、私たちは、これを聞いて本当にそうだと心から思っているでしょうか。クリスチャンには真面目な人が多いですから、イエスを主と告白したからには主イエスに恥じない生き方をしようと、誠実に頑張っている人がきっと大多数でしょう。それ自体は主イエスの恵みを忘れまい、主イエスから離れまいとする立派な心構えだと思います。ただ、人を正しい行いへと駆り立てるこの真面目さが時々人を追い詰め、しばしば人を裁いてしまう人間の限界も思うのです。これは「主イエスを信じるだけでいい」と言われても「それだけではあまりに都合がよくて申し訳ない」「本当は何か足りないんじゃないだろうか」と真面目な人ほど陥る罠ではないでしょうか。清くなりたいなら川で7回体を洗えばいいとエリシャに言われたものの、あまりにも単純すぎて拍子抜けしまい、疑いと不満、怒りさえ抱いてしまったナアマン(列王記下5)を思い出します。「本当に、信じるだけでいいのか。救われるためには、なにか良いことをしなければならないのではないか。」と膨らむ疑い。これこそが、主イエスが気をつけなさいとおっしゃられた「ファリサイ派の人々のパン種」「ヘロデのパン種」の類ではなかったかと思うのです。

私たちは霊的成熟と主イエスによる救いを混同してはなりません。霊的成熟には聖霊によって自ずと良い行いが伴うようにもなりましょうが、救いには何の条件もないのです。人間の誠実さでは満たせなかった救いの条件を取り払うために主イエスは来られ、身代りになって死んだところで信じないかもしれない不確かな私たちの罪のために十字架にかかられました。そうまでして愛され、救われている私たちは、主イエスの犠牲によってすでに救われている不動の事実を見落としてはなりません。

主イエスは弟子たちに「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」(マルコ8:17~18)と畳み掛けるようにおっしゃられましたが、この時、弟子たちは「何」が分からず「何」が悟れず「何」が見えず「何」が聞こえず「何」を覚えていなかったのでしょうか。それはキリスト・イエスに結ばれていればそれでいいという事実です。いつも共におられる主イエスをよりどころとしていれば、それでいいという事実であります。

主イエスは真理であり、真理は私たちに自由を与えます(ヨハネ8:32)。この世界には、真偽を問わずあらゆる情報が氾濫しており、私たちも、その中で何が本当で何が必要なことかも分からなくなって溺れること、疑いのパン種で心を一杯に膨らませることからなかなか無縁にはなりませんが、そんなありのままの私たちに自由を得させるために、主イエスは来てくださったのです。私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられます(Ⅱテモテ2:13)。今や、私たちの自身のあやふやな自覚や身勝手な都合に一切左右されることなく、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのですから、主イエスによって自由を与えられた者、主なる神に愛されている者として、御言葉に何かを付け足したり、減らしたりと、自分の都合でさじ加減することなく、ただ御言葉に忠実に聴き、真理の主イエスに従って、永遠の命を遠慮なく喜び、キリスト者の自由を大胆に証してまいりたいと祈り直すのです。

 

(2018年7月1日礼拝説教)

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   日本キリスト教団

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