招詞:ローマの信徒への手紙14:9

旧約:出エジプト記3:1~10

新約:マルコによる福音書12:18~27

説教:「この世でも導く神」指方周平牧師(2017年11月)

 

キリスト教を国教に定めたローマ皇帝コンスタンティヌスは臨終に際して洗礼を受けました。このタイミングでの洗礼は、罪を重ねない状態で神さまの御許へ行きたいと願った当時の人々の慣習でした。しかし、十字架の絶望の死からも、永遠の命の希望を紡ぎ出された主イエスの父なる神さまは「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない」お方です。旅は目的地に着いてから始まるのではなく、すでに途上の準備にも、心膨らむ発見や楽しみが満ち充ちているのですから、死後に天国へ行くためだけの信仰、生前の生活にどこか厭世的な信仰も「大変な思い違い」に思えてなりません。

 

主イエスの時代、ユダヤの国には、律法の専門家にして祭司階級を独占していたサドカイ派とよばれる人々がいました。彼らは神さまを信じていましたが、聖書の律法に肉体の復活や死後の裁きが明記されていないことを根拠に、死者の復活や死後の世界はないと主張し、この世の権威と結び付くことに余念のない現世主義者でもありました。ある時、国中で話題の主イエスを試そうとしたサドカイ派の人々は、レビレト婚(長男が世継ぎを残さず死んだ場合、その妻は、夫の弟によって夫の名を継ぐ子を産んだ風習)に則って7人兄弟全員が1人の女性を妻にした場合、後の世では誰の妻になるのかという難問を主イエスに投げかけました。これに対し主イエスは「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と痛快に答えられ「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と、死者の復活も死後の世界も確かに存在すること、そして万物が新しくされるその時は、この世の延長ではないことを啓示されたのでした。

 

必ず死ぬ私たちにとって、肉体の死で終わらないことは希望ですが、同時に「大変な思い違い」をしていないか見つめ直したいのは、神さまは「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」すなわち死んでからではなく、この世でも私たちを導いておられる事実です。かつて40年も逃亡潜伏をしてきたモーセは、生きているのに死んでいるような状態から、枯れた柴をも燃え尽きさせない神さまによってエジプト脱出という大事業に召し出されました。神さまは、エジプトで苦しみの日々を送っていたイスラエルの人々に、死んでから別世界に居場所を用意されるのではなく、今にも燃え尽きそうだった80才の老人モーセを用いて、この世界においても新たな歩みへと導かれたのでした。この世は天国への旅路ですが、永遠の命・主イエスに結ばれた私たちは、死んでからではなく、この地上でも新しく歩み始めることができるのです。

 

私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合に関係なく「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」聖書の福音書を岩手県気仙地方の方言に訳された医師の山浦玄嗣さんは「永遠の命」というギリシャ語を、いつでも、時間に関わりなく、ピチピチと、喜びながら、暮らしていくことと翻訳されました。天地万物を創造された神さまの御手で、神さまご自身にかたどって造られ、十字架と復活の主イエスに結ばれて罪を赦された私たちは、今すでに永遠の命を与えられています。生きても、死んでも父なる神さまの御手に包まれ、主イエスが共におられ、神さまの力である聖霊が私たちに尽きることなく注がれているのですから、天に国籍を持つ者として、旅の途上も安心して、日々活々と主イエスの御跡を辿って参りたいのです。

 

(2017年11月12日礼拝説教要旨)

Marc Chagall The Burning Bush from Exodus(1966)