聖書: マタイによる福音書20章1~16節

証し:「受け容れられてこそ」指方周平牧師(2017年8月)

 

主イエスは「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とたとえを語られました。この主人は、その後も9時、12時、3時、5時と広場に行っては、何もしないで立っている人々に「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と、1日につき1デナリオンの約束で招いて回ったといいます。夕方になった時、主人は監督に命じて、1時間しか働かなかった者から順に賃金を払わせました。ようやく、夜明けから働いた者の番になった時、もっと多くもらえるだろうと思っていた彼らが受け取ったのも、1時間しか働かなかった者と同じ1デナリオンだったといいます。

 

私たちはどれだけ働いたかという実績、どれくらい成果をあげたかという結果で評価され、対価が与えられる世界に生きていますから「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」との不平が分からなくもありません。しかし主イエスが語られた天の国での報いは、数値や損得で判断しようとする人間の基準とは次元が全く異なるようです。それは、ただ神さまの招きに応えたかどうかの姿勢を問うものであり、この分け隔てない招きの前に、誰が先か、後かという人間の努力や能力は関係ないのでしょう。この世の価値観では、およそ認められない、とても選ばれない、もう間に合わないと自他共に認める者であっても、招きに応答するならば、神さまは「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と、誰に対しても惜しみない愛を注いでくださることを思い巡らせます。

 

私の歩みには、調子を崩して教会の現場を離れた中抜けの時期があります。それは療養のためだけでなく、牧師としての生き方を立ち止まって見つめ直すためにも始まったはずでしたが、時間ばかりが過ぎる中で、いつしかそれは、どこからも必要とされなくなり、誰からも忘れられていくような焦りや苛立ちへと変わっていきました。「だれも雇ってくれないのです」という夕方5時の労働者のつぶやきは、そんな私自身の言葉でもありました。しかし私は、誰からも見出されないまま、むなしく夜を迎えることはなく、神さまによって再び「ぶどう園に行きなさい」と招かれて、この埼玉地区・東所沢教会へ来ることができたのでした。

 

私は、ぶどう園にたとえられている天の国の働きとは、弱さを裁かれ、経歴を計られることによってではなく、まず存在を認められた先にこそ始まると思えてなりません。そして、最後に1時間しか働かなかった労働者は、1デナリオンをもらいっぱなしでは終わらなかっただろうと、たとえ話の続きを想像するのです。彼はきっとこの翌日もぶどう園に行って、見出され、必要とされている安心の中で主人のために働いたことでしょう。人は、ありのままを受け容れられた感謝に満たされて、はじめて「あなたたちもぶどう園に行きなさい」の招きに応答できること、十字架と復活の主イエスに結び直されて罪を赦され、永遠の命を約束されている恵みに生かされてこそ、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに重荷を担い、愛し合う者とされて、天の国のために命を献げることができるのだと、私はこのたとえに励まされています。

 

(2017年8月16日 埼玉地区中学生KKS・青年キャンプ「朝の会」での証し)